【地球の裏側を走る =アルゼンチンの車と人と街並み=】 No.10 第4部 ≪ブエノス・アイレス街巡り≫ 3.合理的な番地表示 アルゼンチンという国は1816年7月9日に独立した国であるが、スペイン人がこの地に住み着いたのはずっと古く、16世紀に遡る。1516年にはスペインの航海家フアン・デ・ソリスがラ・プラタ川の岸に上陸し、同36年にはペドロ・メンドーサがブエノス・アイレスの基礎を開いた。メンドーサは自分の信仰する聖母サンタ・マリア・デ・ブエン・アイレに敬意を表して、この地を「puerto de Nuestra Sen~ora Santa Maria del Buen Aire(聖母サンタ・マリアの港)」と命名した。これが市名の起源と言われている。これらの先駆者達の名は今でもブエノス・アイレス市内の道路の名前となって残っている。「ペドロ・メンドーサ通り」はブエノス・アイレスの古い港「ラ・ボカ」の岸壁沿いの大通りで、1800年代にはイタリアを始めヨーロッパ各国から多くの移住者が先人の名を偲びながら上陸した場所である。「ソリス通り」は国会議事堂近くにある。また、ウルグアイの首府モンテビデオの独立広場前にあるソリス劇場は、古き良き時代のウルグアイ上流社会の社交場だった所として有名である。このような歴史を持つ国であるから、あらゆる文化、習慣、社会制度などはヨーロッパから持ち込まれ、今なおその思想が受け継がれている法律万能の国である。車社会を規制する交通関係の法律もよく整備されており、この法律に基ずいて作られた”道路標識”は日本よりもはるかに分かり易く、また頼りがいがある。 アルゼンチンの都市は大小を問わず、あらゆる道路に固有の名称がついているので、地図さえあれば初めての場所でも何の不安もなく訪ねることができる。街は通常100メートル四方を1クアドラ(ブロック)とし、夫々の角には黒地に白地で「街路名」、「一方通行の方向を示す矢印」、「何番地から何番地までを表わす番地数」が書かれた標識が立っている。(小さな通りでは角の家の壁に貼り付けてある)。一方通行の道路の片側は1〜99までの奇数番地、反対側は2〜100までの偶数番地がそれぞれ50番地ずつ割り当てられている。一つの番地と言うのは道路の長さの50分の1(通常は2メートル)だから、建物の間口が広ければ数番地分も占有するので実際の番地の数は50より少ない。一つのデパルタメントで玄関と横のガレージの入口の番地とが違うのも珍しくない。 ![]() 一軒に何所帯も住んでいるデパルタメントを始め、一戸建ての家(市内では1枚の壁が隣家と共用の仕切りになっているのが多い)でも名前を書いた表札を出している家は、医者、弁護士など特定の職業の人の家以外はまずない。手紙を出すにも訪問するにも、道路名と番地、それにデパルタメントの階数(一つの階がA,B,C,などのように区分けされているデパルタメントも多いが、その場合はこの区分も)だけ知っていれば用が足りる。逆にこれらを知らないと、その辺まで行けば分かるだろうと思って、折角目指す家の側まで来ながら遂に見つからなかったと言うことにもなりかねない。「何通りの何番地の何階」と言うことさえしっかり覚えておけば、表札がなくても自信を持ってブザーをおすことができる。商店や事務所では、遠くから見えるようにと建物の外にはみ出した看板を出すと税金がかかるので、ドアーのガラスにだけに名称を書いてある。 日本のようにいくら地番統合とか整理しても、名前のない道路が多く、おまけに番地が飛び飛びでは効果が薄い。・これに比べるとブエノス・アイレスの街は誠に合理的な住居表示システムになっている。 ≪写真:コリエンテス通りとマイプー通りの角に立つ街路標識。上は⇒方向に番「コリエンテス700番〜800番地」、下は「マイプー400番〜300番地」を示す≫ |
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