【地球の裏側を走る =アルゼンチンの車と人と街並み= No.11

第4部 ≪ブエノス・アイレス街巡り≫

4.道路名あれこれ
  何処の国でも都市の通りは皆名前を持っている。旅行などで初めての町ヘ行って、地図をたよりに走る時など特にこの街路名を知ることが重要である。南米大陸の国々はブラジルを除き(正確には大陸北端にある小さな三つの国も除い)1810年から1824年にかけて、大陸の北部はベネズエラ生まれのシモン・ボリーバル、南部はアルゼンチン生まれのホセ・サン・マルティンの活躍によって、スペインからの解放戦争に勝ち独立が達成された。したがって、この二人の英雄の名前は各国の道路、公園、公共建物、橋、鉄道などに残されており、また銅像によってその勇姿が偲ばれ、永遠に人々の心の中に生き続けている。
  アルゼンチンについて言えば、「サン・マルティン広場」、「サン・マルティン通り」、「サン・マルティン劇場」、「サン・マルティン橋」、「サン・マルティン線」等々枚挙にいとまがない。何処の町へ行っても碁盤目の区画の中央にある、いわゆるプラサ・マジョール(大広場、市や町の中心をなす)の正式な名前は、ほとんど例外なく「プラサ・サン・マルティン」である。広場の真中には銅像が建ち、周囲には教会、市役所、市議会、警察署、大きなホテルなどが並んでいる。何処の町でも同じような構成をしていて、それぞれの町に特長がないため、はるばる何百キロも走って何を見に来たのかと失望することさえある。それでも途中の景色に変化のあるときはよいが、ただ大草原だけを走り抜けてきたようなときには、時間の経過さえ感じないようなこともある。
  それぞれの町の通りの角には、高さ2メートル半くらいの鉄製の街路標識が立っているが、首都ブエノス・アイレスのものが何と言っても最も整備されていて見易い。もし日本がアルゼンチンから学ぶべきとを挙げるとすれば、私はその一つにこの街路標識を挙げたい。ブエノス・アイレスのセントロの街造りは昔のパリそっくりで、電柱というものが全くない都市なので標識は独立して角に立っているが、バリオ(住宅街)へ行くと柱ではなく、角に当る家の壁面などに標識板が貼り付けてある。初めての場所へ行った場合など地図を見ながら現在地を確認したり、逆に迷ったときなどは街路標識を見て、地図の上で自分の所在地を探すことができるなど、まさに標識は街の燈台である。
  地図を眺めるとき、改めてアルゼンチンは実に多彩な複合民族国家だと感じる。イスラエル通りも、イラク通りもあり、ないのは第二次世界大戦後に独立した小国やアフリカ諸国などの名前で、世界の主な国から名前が集まっている。ブエノス・アイレスの街路名の種類は大きく分けて、昔の英雄・将軍などの個人名、ラテン・アメリカの国名と都市名、アルゼンチンの州名・都市名、それに世界の国名、有名な都市名などであるが、州名や都市名には宗主国スペインにあるのと同じ名前が沢山ある。ブエノス・アイレス以外の都市にある道路名もほとんどこれと同じような名前が使われている。
 1982年4月2日に始まった英国との間の「マルビーナス(フォークランド)諸島戦争」の折りに、当時の軍事政権はレティーロ駅前のイギリス広場とか、ラス・エーラス通りを起点とする「カニング通り」などの英語名の通りを、皆スペイン語の別な名前に変えてしまった。しかし、市民に永年親しまれた名称は、それが例え敵国の呼び名であっても簡単には変えられないらしく、カニング通りは結局元に戻ってしまった。これと反対にミクロ・セントロにある「カンガージョ」と言う通りは、アルフォンシン大統領の民政になってから、軍部が政権を握っていた間は禁句とされていた、故ペロン大統領の名前に変えられた。今後民主政権が続く限りは、この「テニエンテ・ヘネラル・フアン・ドミンゴ・ペロン通り(ペロン中将通り:ペロン大統領の軍人時代の階級)」は存続し続けるだろう。私が住んでいたすぐ側に「マラビア」と言う通りがあったが、何時の間にかその北半分が「シリア・アラブ共和国」に変わってしまった。このほかにも以前の名前が変わった所がいくつもある。どのような命名基準があるのか知りたいものだ。ブエノス・アイレス市内の何千と言う通りの名称を分類、整理してみるのも面白いことではないかと思う。

≪写真:ブエノス・アイレス最大の繁華街フロリダ通りの標識、歩行者の絵が書いてあり、この通りは終日歩行者天国である≫  
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