【地球の裏側を走る =アルゼンチンの車と人と街並み=】 No.12 第4部 ≪ブエノス・アイレス街巡り≫ 5. 日本名の通り こんなに沢山の国名や都市名の通りがあるのだし、日本人が大勢住んでいる国なので日本名の通りが一つや二つはあってもよさそうなものだと考えるのは当然のこと。そこで、地図にある索引を見ながら”A”から順番に調べてみた。まず、JAPO'N を始め六大都市名を片っ端から捜してみ。やはりあった。六大都市とはいかないが、JAPO'N、TOKIO、OSAKAと三つも見つけ、早速地図の上でこの場所を当って見ることにした。 ![]() 話が横道に逸れるが、ここでちょっとだけ東京と言う名前の書き方について説明する。スペイン語圏では、カ、キ、ク、ケ、コは、CA, QUI, CU 、QUE 、COと書く。キョは”KYO”でなく”QUIO”または”KIO”である。従って東京は、TOKYOではなく”TOKIO”と書く。若者の音楽グループにTOKIOと言うのがあるが、私は始めTOKYOを気取ってTOKIOと書いているのかと思っていたが、呼び方も文字通り”トキオ”なので、一体これは何だと思った。”東京”とは違う意味があるあるなら教えて欲しいと思っている。 話を戻して、JAPO'Nは南部に、TOKIOとOSAKAは市内のほぼ中央部にあり、100メートルばかりの短い道である。かって市の南部は工場の多い下町で、朝夕には勤労者の人波や、それを目当ての露天が並び活気を呈していた地域であった。≪現在では、工場の大半は郊外に移転し、露天は禁止されて殆どいなくなってしまった≫。丁度東京の蒲田辺りに相当し、多摩川のような位置を流れる「リアチュエロ川」には100年を越す古くて威厳のある、門構えのついた「ウリブール橋」が架かっている。この橋はぼろぼろに錆びて、橋桁の隙間からはどろどろの油が浮いた黒い川面が覗き、渡るのが恐ろしい橋であった。 ![]() 次ぎはJAPO'N通りの番だ。しかしいくら探し回っても見当たらない。地図に示された場所は、今は使われていない鉄道の高く盛り土された土手の下に当たる筈である。鉄路は雑草に埋もれ、真っ赤に錆びた信号機だけがぽつんと立っている。周囲の環境は治安の良いブエノス・アイレスに似つかわぬ、なんとも不気味なムードを醸し出している。灰色のくすんだ壁の、ひょっとしたら手作りかもしれないような小さな家が並んでいる。行ったり来たりする私の車を胡散臭そうにじろじろ見ている一人の老婆に尋ねた。JAPO'Nと書かれている地図を示して、「ドンデ・ケーダ・エスタ・カージェ(この通りは何処にあるか?)」と聞くと、ペルーかボリビアの高原からでも出てきたような、赤銅色の顔に何本もの深い皺を刻んだその老婆は、無言で家の奥から若い娘を連れてきた。お婆さんは字が読めなかったのかもしれない。 ![]() この他にも通りではないが、パレルモ公園の端に「パルケ・ハポネス(日本庭園)」がある。1967年、今の天皇皇后両陛下がまだ皇太子・妃殿下だったころにアルゼンチンを訪問したのを記念して、日系人社会が同年の3月から突貫工事で造園したもので、完成後ブエノス・アイレス市に寄贈した。しかし、市の管理がルーズで荒れたため1976年に日本人会が改修工事を行い、各方面の寄付を得て規模を一新し、本格的な日本庭園を造り上げた。現在ブエノス・アイレス市の名所の一つになっている。 ≪写真:上、calle Tokio 東京通り。中、calle Osaka 大阪通り。下、日本庭園≫ |
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