【地球の裏側を走る =アルゼンチンの車と人と街並み=】 No.17 第5部 ≪ブエノス・アイレスのタクシー事情≫ 1. 昔は自家用車のお下がりだった アルゼンチン人にとっては主食である肉が買えない日があっても、タクシーの走らない日はないし、タクシーの見られない通りはないほどタクシーがやたらに多い。1980年代にはペウジョ(プジョー)、レナウ(ルノー)、フォード・ファルコン、ドッジ(ダッジ)、フィアット(ファイアット)などが走り回っていたが、その殆どが自家用車のお下がりで、それを上半分を黄色、下半分を黒のタクシー・カラーに塗っていた。≪今ではこの他に、、フォルクスワーゲンが増えてきており、10年以上も前の車種はタクシーとしての使用が禁止されている≫。かっては、クーラーが付いたタクシーなどは一日中探し回っても無かった。自家用車でもなかななクーラー付きの車には出会わなかったもので、夏に窓が閉まったまま走っているのを見たポルテーニョ(ブエノス・アイレスっ子)は、「ヘー、クーラー付だ!」と注目したものである。(私の車には勿論クーラーもステレオもついていたが)。≪1990年代の経済復興期にはタクシーにもクーラー付きが出現したが、これもこの時代の大きな変化の一つである。ブエノス・アイレスには約42000台のタクシーが登録されていて、これが24時間走り回っているのだから、タクシーを捕まえるのが難しいということは殆どない。それに、ここ数年で無線タクシーが急激に増えたので、家にいながらにしてタクシーがやってくる。料金は、レーミスという日本のハイヤーのような業者が増えて競争が激しくなったため、ここ数年上がっていない。2004年始めの頃の料金は、初乗りが1.28ペソ、その後100メートル毎に0.70ペソとなっている。いずれにしても、感覚的には日本の4分の1くらいの値段であると思えばよい≫。 タクシーに乗るのに心配なのは安全性の問題である。悪い事するタクシーがいるのは、何も今更改まって言う事ではなく、昔から言われていた事でもある。アルゼンチンは日本のように営業用の2種免許などはないので、誰でもタクシードライバーになれる。登録されたタクシーを借りて営業している奴もいるし、強奪したタクシーでしゃあしゃあとと営業している奴もいるし、強盗とぐるになって、一人で乗ってくる客にナイフを突きつけて巻き上げるのがいるなど、タクシーに乗るには相当の覚悟がいる。しかし、全部が全部そうだというわけではなく、真面目な運転手もたくさんいる。≪彼らは彼らなりに団結して「安全シール」を張って安全をアッピールしたり、客も自分が乗った車の番号を携帯電話で家族に知らせたりして自己防衛に勤めているようである≫。 2.街角のドアーボーイ タクシーは短期の旅行者も長期に滞在している人も一様に利用する最も手近な交通機関である。それだから、ここでその乗り方について書いても「そんなことはない」とか「私はこうだった」などと異論を唱える方がいるかもしれない。しかし、4年もの間、通勤は往復ともほとんどタクシーを利用し、また家族との夜の外出のときも、食事には必ずビーノ(ワイン)を飲むことを考えてタクシーに乗っていたので、ここに書いてある事は大体において間違いないと思って頂い ![]() タクシーは先にも述べたが、市内のどこでもつかまえることができるし、要所にはちゃんとタクシー乗り場がある。この乗り場にはドアーボーイをやっているみすぼらしい姿の子供達がいる。これも交差点の物売り同様、底辺に生きる人達の一種の職業と言えないこともないが、ただドアーを開けるだけのことで、いちいちお金を払うと言うより払わされるのは、まことに煩わしい。そうかといって、払わないでそのまま乗ると、運転手から嫌味を言われる。あるときのこと、小銭がなかったので、ちょっと不味いなと思いながら、黙って乗り込んだら、案の定運転手からいきなり「ポルケ・ノー・レダ?(何故彼にやらないのか)」と言われた。癪にさわったので、財布を見せて 「細かいのがないんだ。料金の釣りを君にやるから、今度あの乗り場へ行ったときに君からやってくれ」と言ったら急に機嫌が良くなった。 この反対にタクシーから降りる客が多い、フロリダ通りとコリエンテス通りの角とか、フロリダ通りとロケ・サエンス・ペーニャ通りの角辺には、降りる客のためドアーを開ける子供達がいる。たまたまタクシー代のお釣りをまだ手に持っている人が、何がしかを与えているのを見たが、降りる時まで余分なお金を払う必要はない、と幾度も自分に言い聞かせたものである。 ≪写真: ブエノス・アイレス市の西側を走るアルゼンチン最初の高速道路「ヘネラル・パス」。ペロン大統領が1940年代後半に第二次大戦で食料を西欧に売った金で作ったといわれる。≫: |