【地球の裏側を走る =アルゼンチンの車と人と街並み= No.19

6部 ≪観光案内書に載っていない所≫

1.古代文明が何もない国
 
アルゼンチンには日本人移住者約32000人、駐在員とその家族が約600人いる。(移住者の子弟のなかには日本へ出稼ぎにきている者も多いので、この数字は2004年現在では変わっているかもしれない)。もっとも、移住者の中で日本国籍をもっている人は、一世を主として3分の1くらいであろうか。後はアルゼンチン国籍の二世、三世で、例外的にパラグアイとかボリビア国籍の人もいる。移住者の職業の内訳は、洗濯屋さん約40%、農業(花つくりを含む)約25%で、残りの人達は商業、飲食業、製造業、弁護士、医者、教師、通訳案内業なとであるが、軍人になった人も僅かではあるがいる。 この中には日本製のマイクロバスなどを数台も持ってアルゼンチン人の運転手を使って観光業をやっているひともいる。
  ブエノス・アイレスの観光はホテルのフロントに申し込むと、バスがホテルまで迎えにきてくれて、お定まりのコースに連れて行ってくれる。すなはち、コスタネーラ(ラ・プラタ川沿いの道)、コングレッソ(国会議事堂)、カサ・ロサーダ(大統領府)、とその前庭に当る、プラザ・デ・マージョ(五月広場)、及びその周辺の官庁街、ホセ・サン・マルイティン公園、世界一の道幅を誇るヌエベ・デ・フーリオ大通り、世界三大劇場の一つと言われるコロン劇場、古い港のある下町ラ・ボッカ地区などを巡るコースである。夜のコースは、もっぱら観光客相手に、懐メロのタンゴを選んで聞かせるタンゲリーヤ(軽くお酒を飲みながらタンゴを聞いたり踊りを見たりするライブ劇場)での楽しみが主である。そして、土曜、日曜などは郊外のエスタンシア(牧場)で豪快な焼肉を食べながら、フォルクローレを聞いたり、ガウチョ(草原の牛飼人=カウボーイ)の踊りを鑑賞したり、興味のある人は馬に乗ったりするツアーもある。これらの場所はアルゼンチンに行かなくても、観光案内書、旅行記、ラテン・アメリカ音楽関係の本とか、テレビ、新聞などで日本にも紹介されているので、名前くらいは聞いた方もいると思う。  
  そこで、この物語を最後までお読み頂いた奇特な方々に、観光バスが行くような言わばありふれた場所ではなく、特別に関心がなければ行かないような、また行く機会がないような処を紹介してみよう。

  元来アルゼンチンには、メキシコのマヤ、アステカ文明、ペルーやボリビアのプレインカ、インカ文明のような、フペイン人が来る以前に栄えた古代文明や、スペイン人宣教師が建設したパラグアイのユートピアのような古い遺跡がなく、独立戦争当時の跡などに精々石のモニュメントが建っている程度である。さらには、外敵の侵略、天災などの被害も受けていないので、地面を掘っても何も出てこない。岩塩の多い草原地帯なので、出てくるのはしょっぱい水だけだ。むしろ80年以上も前に建てられた懐古的な建物や道路などを見て、古いヨーロッパを偲ぶのに適した国である。私には、南米のパリと言われるブエノス・アイレスは、今では開発が進んだ本家よりもパリらしさが残っているように思える。

2.ブエノス・アイレスの2大墓地
 
<チャカリータ墓地>
  地理的にブエノス・アイレス市のほぼ中央部にあり、東西2キロ、南北1,5キロの菱形をした大墓地で、中央部に地下3階建ての棺のデパルタメントがある。1階ヘ降りただけで、もうひんやりと湿った空気が肌にぞくぞくと感じる。一列ニ約50の棺を納める引出しがあり、これが4段になっていて、最上段へは移動式の梯子に登って花を奉げる。
  この地下納棺場を中心にして、キリスト教本来の土葬をする埋葬地が放射線状に広がっている。広い墓地の周囲を囲った塀は、内側が納骨堂になっていて、一箇所ある火葬場で焼いた骨の壷を安置しておくようになっている。墓地は5年とか10年の契約で借用するもので、何年かすると骨は掘り出されて納骨場へ移され、その後にまた新しい棺が埋められる。新しい棺を埋めるために掘り起こされた土は、先住者の脂が沁みてねちゃねちゃしており、余りよい気持ちはしない。しかし、広い墓地には十字架が林立してはいるが、陰鬱はムードは全くなく、昨今多くなった公園墓地といった感じである。家に仏壇といったものを置かないので、個人を偲ぶ人達がここまで墓参に来るため、どこかの十字架の下には、いつも新しい花が供えられている。
  有名なタンゴのマエストロ(巨匠)達の多くもここに眠っていて、墓標代わりに往時の颯爽とした舞台姿の銅像が建っている。夜毎、地下のタンゲリーヤでは名人達の競演が、熱っぽくそして華やかに繰り広げられていることであろう。
  1935年、コロンビアのメデジン空港で飛行機事故で亡くなった、日本でも有名な不世出の大歌手カルロス・ガルデルのパンテオン(霊廟)もここの一隅にある。プラッカ(死者への弔辞や賛辞を刻んだ銘板)がびっしり貼り付けられた台座に立っているガルデルの像は、見上げるばかりである。煙草好きな彼の右手には、いつもフアンの供える煙草の煙が絶えない。遠くからも見える煙草の煙が、ちょっと分かり難い墓地内で、初めて訪れる人々へのよき道標になっている。私も行く度に銅像によじ登り、火のついた煙草を指に挟んでおいた。

 <レコレータ墓地>
  歴代大統領や将軍、著名人など、いわゆる上流社会に生きた人々の墓地が、ミクロセントロに近いレコレータ墓地である。周囲には各国大使館、国立美術館、国立大学、テレビ局などがある文教風致地区である。ここの墓地にはチャカリータのような土葬墓地はなく全部がパンテオンである。アルゼンチンの金持ちは途方もない金持ちである。平均的財産がどのくらいあるのか想像もつかないが、とにかく凄い。彼らは国民総人口の1%にも満たないのだろうが、金持ちになればなるほど働かない。最高クラスは大牧場とか鉱山のオーナーで、自分も家族もヨーロッパか米国に住んでいて、経営は執事(管理人)まかせで、アルゼンチンには殆ど帰ってこない。実際に自分が先頭に立って働く社長クラスはこの下の階級である。中流階級でさえも日本の中流とは桁が違う。アルゼンチンの土地の取引単位は”ロット”と言い、1ロットは普通間口9米、奥行き30米の270平方米である。中流階級でも上の部類に入る人たちは、このような土地いっぱいに建てたデパルタメント(マンション)に住んでいる。このくらいの広さの家になると、応接間は50〜80平方米はあり、家族の食堂、寝室が4〜5室、女中部屋が1〜2室、洗面所、トイレは女中部屋のものを含めて3〜4か所、とまあざっとこんな具合だ。私が住んでいた家も11階建てのデパルタメントの9階で、応接間が約60平方米、寝室4、女中部屋1、トイレ3+女中部屋トイレがあった。そして、郊外にはキンタ(別荘)を持ち、週末の休暇は必ず家族と過ごす。車は主人用と家族用があり、女中が2人と血統書付き犬がいる。国庫は借金だらけで火の車でも、かっては世界の食料庫と言われ、無尽蔵にも等しい資源を持つ豊かな国の中産階級以上の個人生活は誠に優雅である。
  レコレータ墓地にはペロン大統領の最初の夫人、というよりも日本でもロングランを続けた、オペラ「エビータ」の主人公と言ったほうが分かり易いエバ・ペロンの墓があり、プラッカがびっしり貼り付けられたパンテオン(霊廟)の扉には花が絶えない。どうゆうわけか、エバはペロン家の墓ではないドアルデ家の墓に入っていて、名前も独身時代の「マリア・エバ・ドアルテ」である。彼女の遺体は数奇な運命をたどり、一時は海を越えてヨーロッパへも運ばれたと言う話もある。ペロンの死後は二番目の夫人イサベルが政権を継いだが、軍部のクーデターに倒れてスペインに亡命した。この間ペロンの亡霊に怯えた軍事政権は、ペロンの名をアルゼンチンから抹殺しようとして、ペロン通りを他の名に替えたり、ペロンに関する出版物はすべて発禁にするなどの強制手段をとった。欧米や日本で大人気を博したエビータの歌劇も、本場のアルゼンチンではまだ一度も上演されていない。それでも国民の60%以上もいたペロン支持者達は密かにエバの墓に詣でていたのである。1984年に文民政府になってから再びペロンの名前は復活した。1996年に米国で製作された映画「エビータ(主演マドンナ)」はエビータの人格をl侮辱した個所があるということから当時の政権党ペロン党がロケ撮影に反対した。この映画に対抗してアルゼンチン映画界が「エビータ・歴史と真実」と言う映画を政府の支援で製作した。
  どのパンテオンも大理石などで出来ており、間口は2米くらいあってびっしり並んでいる。内部は1階だけではなく地下室もあり、先祖代々の棺が安置されるようになっている。ドアルテ家の扉の奥を覗くと、どれがエバの棺がわからないが、正面に一際立派は棺があり、それが彼女のものかもしれない。春にはハカランダの花が美しく咲く墓地の周囲は90年代から開発が進み、日本のゼネコンが建てた一流ホテルや、大きなガレリア(大型ショッピングセンター)が出現した。チャカリータに眠る大勢のアルゼンチンの歴史を作ってきた人々の霊は、地上の賑わいを如何に感じているだろうか。

  
≪写真: 上、チャカリータ墓地のタンゴの巨匠達が眠る墓の上に立つ銅像。(左:アグスティン・マガルディ、右:アニバル・トロイロ)。 中、ガルデルのパンテオン、壁一面にプラッカが貼り付けてある、日本のタンゴ・フアンのものもいくつかある。 下、ドアルテ家のパンテオンに貼り付けられたエビータのプラッカの一つ。≫

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