その1
 
 
エビータこと、マリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロンの名前は、映画、オペラ、それに伝記本などで多くの日本人にも知られている。エビータとは、エバの愛称である。日本風に言えば、大統領夫人としての尊敬と、 庶民の出自であることの親密感を込めて、”エバちゃん”、或いは日本人が外人の人気者を呼ぶのに”〜さま”と言うように、”エバさま”と呼んだものだと思う。
  しかし、エビータが親日家であったことは余り知られていない。ましてや、その原因になったのが、貧困に悩まされていた少女時代に、日本人移住者が経営していたカフェ・バーで働き、日本人に親切にしてもらったことが遠因だったという話は、アルゼンチンに移住した日本人の一世でも、 極く一部の人しか知らない秘話である。本や映画や舞台劇などでも、16歳になってブエノス・アイレスに出てきて以降の人生は詳しく紹介されているが、それ以前の時代のことには殆ど触れられていない。都会願望の夢を膨らませながら、多感な少女期を送った1930年頃(昭和5年11歳ころ)からの約5年間の年譜が抜けている。その理由は、この頃のことは特に人には語りたがらなかった出来事が多かったのではないかと思う。 私は、太平洋戦争開戦直前にアルゼンチンに移住し、60年以上もブエノス・アイレスに住んでいた日本人の友人(数年前にブエノス・アイレスで死去)から、この空白の5年余りを埋める貴重な資料を提供された。この物語は、友人の意思を受けその資料を元にまとめたものである。


 
エビータは、1919年(大正8年)5月7日、ブエノス・アイレス州フニン群のロス・トルドスと言う小さな町で 牧場を経営していた、フアン・ドゥアルテと言う人の愛人であった母親、フアナ・イバルグレンの末っ子として生まれた。彼女の上には3人の姉と一人の兄がいた。しかし、1926年フアナ一家の生活を支えてきてくれたフアン・ドゥアルテが自動車事故で死んでから生活は一変した。それまでも、エビータ達兄妹は母親の行状を蔑む近所の子供達から遊びの除け者にされていたが、特にエビータの心に一番深い傷後を残したのは、父親フアン・ドゥアルテの葬式での屈辱の体験であった。フアン・ドゥアルテの正妻に憎まれている事を承知している母親のフアナは、 せめて子供たちだけでも葬儀に参列させてやろうと、馬車に乗せて葬儀の行なわれるドゥアルテ牧場に行かせた。しかし馬車は中へ入る事を拒否されて立ち往生した。事情がよく分からない子供達は当惑して、ただ泣く ばかりであった。それを、ドゥアルテの弟がとりなしてくれ、やっと参列を許されたことである。それでも、ドゥアルテは子供達の認知はしてくれていた。

  1930年半ば、母親フアナは5人の子供達を連れて、ロス・トルドスから群都フニン市へ引っ越し、必死に働くと同時に新しい愛人をみつけた。 それは、その地方の政治家であった。フアナは5人もの子供を産んだにもかかわらず、フアナには男をひきつける不思議な魅力があったのである。
  こうした母親の血を受けたエビータは、8歳頃からすでに黒く艶やかな髪、見事な歯並び、理想的な鼻、黒真珠のような瞳、そして透き通った白い肌などを具え、美しい娘に成長する下地を見せていた。このような環境の中で、田舎の貧しく味気ない生活を送っていたエビータは、都会にあこがれる大きな夢を持つ少女に育っていった。上の3人の姉達には母親がすでに結婚相手を見つけていたが、エビータはパンパの埃っぽい土地から抜け出し、女優になることを夢見るようになっていた。そして16歳になり(13歳からという説もある)中学を卒業した1935年、日本人移住者の三浦与吉(福島県出身)(注1)が経営するコーヒー店チエーンの一つで、溝口(高知県出身)という人が支配人をしていたルハン市(注2)のコーヒー店でビトロレーラとして働いた。当時の大きなカフェ・バーは店の奥の一段高くなった場所にピアノと大型のレコードプレイヤーがあり、彼女はプレーヤーのゼンマイを巻く仕事をやらせれていた。この仕事は「ビトロレーラ」と呼ばれていた。これは同時代のレコード製造業界のトップだったビクターからきている。
  ビトロレーラの女性達は客集めのために可愛い女の子が集められていたので、プレイボーイ達が狙う的になり、身を持ち崩す娘が出るので、女性としては余り良い職業ではなかった。しかし、溝口氏や店の日本人のボーイ達(日系一世)は皆エビータにやさしく、可愛いセニョリータとして扱ったので、少女時代の多感な彼女に非常な感銘を与えた。牧場主の2号の娘ということで父親の葬儀に参列を断られるという辱めをうけたことがあるから、日本人から受けた待遇には特に感激したのであろう。しかし、その頃のエビータは、陰気な顔つきで、後年の魅力的な顔つきは想像できなかったと、同級生は言っている。
 
(注1)三浦与吉については後述する
 (注2)ルハン市はブエノスアイレスから西方へ69kmのところにある教会の町である。国内でも有数の教会があり、いつも信者の参拝が絶えない。特に信仰の深い信者は数百メートルも手前から膝で歩いてくる。教会前の広場に面して歴史博物館があり、広場には観光客相手の土産物屋や小鳥を使ったおみくじ売り、宗教に因んだ物品を売る露店が多く、外国人観光客も交えて常に賑わっている

 エビータが小さい頃にビトロレーラをしていた話は、いろいろな伝記物語の中には絶対に出てこない。これはアルゼンチンではタブーだったからで、このことを知っていたのは彼女の家族と夫のペロンくらいであり、勿論自身も絶対に人には漏らしていない。しかし、エビータが大統領夫人となって敏腕を振るうようになってからは、政敵や上流社会の夫人達(エビータは上流階級からいじめられたことがありこの階級を敵視ていた)が、恥部となっていたこのビトロレーラの秘密をいつのまにか探り出し種々の噂を流した。そのため、このような悪い噂を流す人達を徹底的に排除したという話もある。
  
 こうした毎日の中、当時人気絶頂の若くてハンサムなタンゴ歌手、アグスティン・マガルディがフニンの劇場に公演に来ているのを知り、劇場で働いていた友人の計らいで劇場の裏口から忍び込み、マガルディに会ってブエノス・アイレスに連れて行ってくれるよう懇願した。マガルディとの出会いについては、 ブエノス・アイレスに出たいという夢を叶えるために、性的関係を代償にしたとか説があるが、真実は分からない。 とにかく、こうして都に出る夢が叶い、華麗だが短い人生のスタートを切ったのである。


 【写真説明:右上:エビータが生れたロス・トルドス村の駅。左上:エビータの母親フアナ・イバルグレン。右下:エビータが幼年期を過ごした家。左下:アグスティン・マガルディ。 】 
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