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エビータこと、マリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロンの名前は、映画、オペラ、それに伝記本などで多くの日本人にも知られている。エビータとは、エバの愛称である。日本風に言えば、大統領夫人としての尊敬と、 庶民の出自であることの親密感を込めて、”エバちゃん”、或いは日本人が外人の人気者を呼ぶのに”〜さま”と言うように、”エバさま”と呼んだものだと思う。 しかし、エビータが親日家であったことは余り知られていない。 ![]() 1930年半ば、母親フアナは5人の子供達を連れて、ロス・トルドスから群都フニン市へ引っ越し、必死に働くと同時に新しい愛人をみつけた。 それは、その地方の政治家であった。フアナは ![]() こうした母親の血を受けたエビータは、8歳頃からすでに黒く艶やかな髪、見事な歯並び、理想的な鼻、黒真珠のような瞳、そして透き通った白い肌などを具え、美しい娘に成長する下地を見せていた。このような環境の中で、田舎の貧しく味気ない生活を送っていたエビータは、都会にあこがれる大きな夢を持つ少女に育っていった。上の3人の姉達には母親がすでに結婚相手を見つけていたが、エビータはパンパの埃っぽい土地から抜け出し、女優になることを夢見るようになっていた。そして16歳になり(13歳からという説もある)中学を卒業した1935年、日本人移住者の三浦与吉(福島県出身)(注1)が経営するコーヒー店チエーンの一つで、溝口(高知県出身)という人が支配人をしていたルハン市(注2)のコーヒー店でビトロレーラとして働いた。当時の大きなカフェ・バーは店の奥の一段高くなった場所にピアノと大型のレコードプレイヤーがあり、彼女はプレーヤーのゼンマイを巻く仕事をやらせれていた。この仕事は「ビトロレーラ」と呼ばれていた。これは同時代のレコード製造業界のトップだったビクターからきている。 ビトロレーラの女性達は客集めのために可愛い女の子が集められていたので、プレイボーイ達が狙う的になり、身を持ち崩す娘が出るので、女性としては余り良い職業ではなかった。しかし、溝口氏や店の日本人のボーイ達(日系一世)は皆エビータにやさしく、可愛いセニョリータとして扱ったので、少女時代の多感な彼女に非常な感銘を与えた。牧場主の2号の娘ということで父親の葬儀に参列を断られるという辱めをうけたことがあるから、日本人から受けた待遇には特に感激したのであろう。しかし、その頃のエビータは、陰気な顔つきで、後年の魅力的な顔つきは想像できなかったと、同級生は言っている。 (注1)三浦与吉については後述する。 (注2)ルハン市はブエノスアイレスから西方へ69kmのところにある教会の町である。国内でも有数の教会があり、いつも信者の参拝が絶えない。特に信仰の深い信者は数百メートルも手前から膝で歩いてくる。教会前の広場に面して歴史博物館があり、広場には観光客相手の土産物屋や小鳥を使ったおみくじ売り、宗教に因んだ物品を売る露店が多く、外国人観光客も交えて常に賑わっている。 ![]() こうした毎日の中、当時人気絶頂の若くてハンサムなタンゴ歌手、アグスティン・マガルディがフニンの劇場に公演に来ているのを知り、劇場で働いていた友人の計らいで劇場の裏口から忍び込み、マガルディに会ってブエノス・アイレスに連れて行ってくれるよう懇願した。マガルディとの出会いについては、 ブエノス・アイレスに出たいという夢を叶えるために、性的関係を代償にしたとか説があるが、真実は分からない。 とにかく、こうして都に出る夢が叶い、華麗だが短い人生のスタートを切ったのである。 【写真説明:右上:エビータが生れたロス・トルドス村の駅。左上:エビータの母親フアナ・イバルグレン。右下:エビータが幼年期を過ごした家。左下:アグスティン・マガルディ。 】 次ぎのページへ |