その2 |
1935年、16歳で上京したエビータは、死に物狂いで仕事を探した。この頃の生活は、エビータの謎の部分と言われている。売春宿で朽ち果てそうになる危機を乗り越え、食うや食わずの中でようやく喜劇の端役にありつき演劇界に入った。人気女優エバ・フランコとパスクアル・ベジシオータ主演のコメディア劇場の喜劇「ペレスの奥方」の端役につく。これからひとしきり、端役の時代が続く。この年7月「家庭は世界の縮図」という舞台に出演、12月には「気ままなマダム」の洗濯女の役がつき、一晩3ペソ稼ぐことになった。 1936年6月、性の乱れを描いた「死のくちずけ」という芝居の一員として地方巡業へでかける。このとき病気の仲間を見舞い、自分も感染して仕事を失ってしまった。回復後またプロダクション詣でが始まった。同世代のビエリーナ・デアレッシーはエビータに会った日のことを覚えていて、次のように語っている。「平凡な女の子で痩せていた。母親に毎月700ペソ送金するために夜中も働いていた。700ペソはかなりの金額だった」。当時の噂ではタバリス、ゴング、エンバシーなどのナイトクラブやキャバレーで働いていたと言われている。女性達の中には、もっと稼ぐために、店が閉まった後近くのラブホテルか、男の逢引用のアパートで身を売り、夜明けに50ペソばかり貰いタクシーで帰宅する女もいたと言う。 1937年、18歳になったエビータは、映画フアン雑誌「シントニア」の出版社を尋ねた。この社のオーナーで元レーサーのエミリオ・カルトゥロビックに一目惚れし付き合うようになった。このロマンスにより始めて映画「セコンドがリングに出た」と言うボクシング映画の端役をもらう。この映画の撮影中に主演男優ペドロ・クアルトゥッチと密かな短い恋に落ちた。この頃から仕事はいくらでも手に入るようになってきた。 アルゼンチン映画「勇士の突撃(1939)」、「町で一番不幸な男(1940)」、「恋人の災難(1941)」などに出演、少しはましなホテルに住めるようになったが、兄のフアンが銀行の金を着服したため、その弁償に有り金を叩いた。そしてボカの安宿に舞い戻ってしまった。界隈のコンパドリート(ヤクザな男達)に狙われたが、次第に彼らはこの田舎出の小娘に敬意をはらうようになってきた。 1930年代後半から1940年代(昭和10年代)にかけて、ヨーロッパと太平洋の戦雲が広がる中、アルゼンチンは肉や穀物の輸出でし大儲け大いに繁栄した。コリエンテスの灯は明け方まで輝き、シャンパは湯水の如く流れ、カルロス・ガルデルが大活躍するタンゴは場末から街の中心へと移って行った。(ガルデルは1935年6月24日、コロンビアのメデジン空港で飛行機事故で死亡)劇場はいつも満員、ラジオ局はチンザノ、GE、ジョンションアンドジョンション、ハロッズ、フォード、RCAなどのCMで潤った。ある金持ちの石鹸会社が20歳を越したエビータに惚れ込み、彼女のためにソープオペラ(石鹸会社が主婦向けに提供したロマンチックなムードの連続ラジオドラマ。)を提供するようになった。 1942年始め、スポンサーの意向を受けてラジオ・アルゼンチンのオーナーのロベルト・ヒルは、制作部長セサール・マリーノに対し、エビータのための番組を作るょう命じた。エビータは演技は下手な女優だったが礼儀正しい女だったようである。ただ、長い間の下積み生活が続いていたが、この時代の彼女の生活には不可解な部分、謎の部分があると言われている。この他にも、ラジオ・エル・ムンドでは「貴方に会った瞬間から愛が」、「愛の誓い」と言った、ソープオペラを放送した。 1943年1月、ラジオ・ベルグラーノで始まったシリーズ番組で、一躍アルゼンチン中にエビータの名が知られるようになった。それは、「わが愛の王国」と言うソープオペラで、その中で、ネルソン提督の愛人、エンマ・ハミルトン、エリザベス一世、ナポレオン妃ジョセフィーヌ、蒋介石夫人宗美令、ロシア皇后アレキサンドラなどの役をこなし、シリーズは1年以上も続いた。その後は映画に出たり、モデルをやったりした後、ラジオ・ベルグラーノのアナウンサーとなり、当時アルゼンチン最大のは発行部数を誇った週刊ラジオ雑誌「アンテナ」の表紙を2度も飾った。アナウンサーの仕事を通してエビータは、全国のラジオ局を支配する逓信大臣のアニバル・インベルト大佐と親しい間柄になっていった。 1943年6月、クーデターが起きた。エビータは大統領官邸に電話をかけ、ラミレス大統領とさも親しいように振舞った。この様子を見たラジオ・ベルグラーノのオーナーはエビータの給料を150ペソから一挙に5000ペソに引き上げた。しかし、大統領はエビータがラミレス大佐の愛人であることをすでに知っていた。ラミレス大佐は、エビータをボカのマンションからポサーダス(上流階級の人々が埋葬されている最高級墓地レコレータに近い高級住宅街)のマンションに引越しさせた。給料が上がったのを妬んでいた他の女優達は「スピード出世と同じようなスピードでまた転落する」と心待ちにしていたが、その思惑は見事に外れてしまった。 1944年1月15日、アンデス山脈に近いサン・フアン州で大地震が起き、州都サン・ファン市が壊滅し数千人の死者がでた。アナウンサーの仕事を通してエビータは大佐を説得し、地震被害の救援基金を集めるチャリティー・ショーをブエノス・アイレス市内のイベント会場ルナ・パルクで開催した。このとき、まだペロン(当時はまだ陸軍大佐)とは 知り合っていなかったエビータは、会場で、その頃アルゼンチンで最も美しい女優の一人と言われていた、リベルター・ラマルケが、恋人のペロンと立ち話をしているところへ近づき、ペロンに紹介してくれるよう頼んだ。こうしてエビータはリベルタ・ラマルケを押しのけて、ペロンのハートを射止めるきっかけを掴んだのである。ショーの途中でルナ・パルクを抜け出した二人はティグレ(ブエノス・アイレス北東30kmにパラナ・デルタのリゾート地)へ車を走らす。翌朝、国防省の車でラジオ・ベルグラーノへ出勤するエビータの姿があった。 そして遂には大統領夫人としてアルゼンチンのファースト・レディになったのである。その後のエビータが、同国の労働者階級の地位向上や待遇改善に貢献した事で、デスカミサード (Yシャツを着ないという意味で、労働者階級の人達を指す言葉)の絶大な支持を受け、独裁色の強いペロン政権の強力な支えになったことは、映画、舞台、出版物などで世界中に知られている。 写真:右上、ブエノス・アイレスへ出てきた頃のエビータ。右下、ペロン大佐。 左上/下 リベルター・ラマルケ】 次ぎのページへ |