その3
 
 しかしながらエビータが親日家であった事は、余り知られていない。エビータが少女時代に働いていたカフェ店で、支配人をしていた溝口氏を始め、日本人移住者のボーイ達みんなに優しくしてもらい、多感な少女の心に日本人の親切心が強く焼き付いて、それ以後親日家になったと言われているが、日本人に対する評価はこのことばかりではなく、日本人の勤勉さや正直さもある。日本人の勤勉さ正直さを表わすエピソードの一つとして、サン・ビセンテにあるペロンの別荘のボーイ、メイド、料理人、庭師などを日本人移住者から募集したことは日系社会では有名な話である。勿論 日本人の正直さ勤勉さを買ったものであるが、その裏には、権力者特有の敵が多いことから、裏切りのない日本人を防犯対策に役立てるためだったと言う話も事実として伝えられている。

 また、エビータには自分を冷遇した人物や社会を絶対に忘れず、必ず報復をするという執念深いところがあった。子供の頃から冷たい仕打ちを受けてきた、金持ち階級に対する 反発が強く、これが労働者階級を支援する行動の源になっている。1945年にはすでにペロンの恋人気取りだったエビータは、映画「サーカス・プロムナード」と言う映画に準主役で出演した。一方、主役のリベルター・ラマルケは、自分からペロンを奪っただけでなく、ペロンの威光を笠に着て勝手に振舞うエビータに強い恨みを持っていたので、あるとき遂に堪忍袋の緒が切れ、エビータに平手打ちを食らわせた。しかし、その後ペロンが大統領になったのを機に、リベルター・ラマルケを始め、下っ端時代にエビータを虐めた女優達は、報復を恐れ皆メキシコへ亡命してしまった。しかしながら、エビータとしては、仕返しをするというよりも、少女期の人に知られたくない経歴を暴かれたくなかったのが真相であると言う日本人もいる。

 一方、大統領のペロンも陸軍軍人として日露戦争に深い関心を持っていたようであり、日本海海戦や旅順要塞の攻防戦などを研究していたと言われている。ペロンはこの戦争で、象のように巨大なロシアを破った鼠のような日本の勇気に敬服し、さらにはその後にアルゼンチンに移住してきた日本人の勤勉さと真面目さに感服した。そして、このことを公の場でしばしば称えたので、日本人移住者は一般の国民達にも評価されるようになり、親日家のアルゼンチン人が増えていった。
 1946年(昭和21年)3月28日(選挙は2月24日に行なわれた)に登場したペロン政権は、戦後の日本との関係修復を積極的行なってくれたばかりか、世界に先駆けていち早く大量の食料を援助してくれた。その内容は、1万トン級の船に一杯の小麦粉や食料品、それに牛の品種改良用にと6頭の種牛などであった。さらには、戦争の為日本に帰っていた大勢の二世達を飛行機で呼び帰してくれるなど、大いに親日振りを見せてくれたのである。

 ペロンは1895年10月8日にアルゼンチンの首都ブエノス・アイレス
郊外のロボスの中産階級の下層の家庭でイタリア系の父とスペイン系のチニータ(下層階級)の母との間に生まれた。5歳の時パタゴニアに移った。8歳でブエノスイアレス郊外の小学校に入学し、その後16歳でアルゼンチン陸軍師範学校へ進学した。1913年12月に師範学校を卒業した後、アルゼンチン陸軍の第12歩兵師団に少尉として配属された。1924年に大尉に昇進した後、1926年から1929年にかけて陸軍高等師範学校で軍事史の研究を修め、軍内で軍事史のスペシャリストとしての頭角を顕していった。1930年には陸軍師範学校の軍事史の教授となった後には精力的に軍事理論や特に日露戦争を中心とする軍事史の研究を行い、その観点から1930年代にはドイツ軍の総力戦思想、具体的には国家の工業化と国民統合の必要性を訴えるようになっていった。陸軍内での出世は速い方ではなかったが、第二次世界大戦中の1939年から1941年までイタリアで駐在武官として赴き、ベニート・ムッソリーニのフアシズムに影響された。帰国後、枢軸国支持派の軍人とGOU(Grupo de Oficiales Unidos:統一将校団)と呼ばれる秘密結社を組織した。

 1943年冬にファシストのデモが起き、ユダヤ人やイギリス人排斥運動が起きた。同年6月にはラモン・カスティージョ大統領政権がGOUのグーデターに倒れ、司令官のアルトゥーロ・ラウソン将軍がカサ・ロサーダ(大統領官邸)のバルコニーから自分が大統領であることを宣言した。しかし、椅子取りゲームの末ラウソン将軍は失脚、GOUが選出したペドロ・ラミレス(カスティージョ政権の国防相)が大統領になった。GOUは内閣で最大の権限を持つ国防相にエデルミーロ・フアレス大佐を選出、まだ一般には名前が知られていなかったペロンは国防次官になった。ラミレス大統領は力のない木偶の坊大統領で、軍内部の権力闘争に右往左往していた。同年10月ペロンは労働局次長に任命され、労働局が労働福祉庁に改組されるとペロンは同庁の初代長官となり、労働争議に介入し、労働者に有利な裁定を行った。労働法の制定や労働者の組織化にも力を注ぎ、こうした労働者保護政策によって1943年から1945年までの二年間で、「社会党が数十年かかってなしとげた以上の成果を達成した」。しかし一方でこのような国家による労使協調政策に反対する自主的な労働組合、特に共産党系の労働運動は激しく弾圧され、ペロンの労働政策は労働者に対する保護と規制を同時に推進する性格を持っていた。

 アルゼンチンは第二次世界大戦には大勢が決した1945年まで参戦せず、大戦中はほぼ一貫して親枢軸的中立国であった、1944年1月26日、ラミレス大統領がドイツとの国交断絶を決めた。当時首都ブエノス・アイレスには毎日のように、クーデターや反クーデターの動きが活発になっていた。2月15日、大統領がドイツに宣戦布告をするつもりだと漏らした。これがペロンを立ち上がらせるきっかけになった。同月24日、ラミレス大統領がペロンに辞職を勧告すると、逆にペロンは、俺の目の黒いうちにここから引きずり出すことはできないと言って、その晩に中央電話局、郵便局を占拠し、警察を襲撃して武装解除し、ペロンの他5人が大統領の執務室になだれこみ、ピストルを突きつけ辞職を迫った。そして新聞記者には、大統領は疲れていると語り、その数時間後にラミレス大統領は過労のため辞任したと発表した。エデルミーロ・フアレス副大統領が大統領になったが、前大統領同様傀儡だった。同年7月、17人の将軍達が文民統制の立憲政治を回復するよう要求した。ペロンは新しい政権で副大統領に昇進し、国防大臣、労働長官を兼任するようになった。

 
【写真説明: 左 リベルター・ラマルケ 右、ペロン大佐。
      
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