その4 |
この頃はまだ、エビータの声は一般大衆には聞こえてこない。しかし、ペロンとエビータの関係は政府関係者や上流階級には知れるようになっていた。要人が恋人を持つのは当然と見られていた。エビータはペロンを監視するため、ポサーダスのマンションの隣の部屋に引越しさせた。その部屋がアルゼンチンの権力の中枢である大統領府の代わりをするようになった。地方出身のエビータは大衆の声が政治に反映されないことを知っていた。1940年代の人口は約1400万、3分の1がブエノス・アイレスとその周辺に住み、その60%が貧民だった。彼らの声は国政には反映されなかったので、ペロンのやるべきことは、彼らの声を活かすためのリーダーになることだと考え、そのため二人は国中を駆け巡った。事実上の実権を握ったペロンが露骨な枢軸国寄りの政策を取ったため、それを嫌ったアメリカ合衆国は大使召還、経済制裁の発動など厳しい反ペロン政策を採ったが、このことが逆に外圧に抵抗する国家主権の擁護者として、アルゼンチン国内におけるペロンのイメージを高め、この頃からペロンの思想はペロニスモ(ペロン主義)、ペロンの支持者はペロニスタ(ペロン主義者)と呼ばれるようになっていった。 1945年、ドイツが負けたためペロンとエビータのナチス支持は裏目に出た。アルゼンチンは世界に友邦を失い孤立した。さらにアメリカとも関係が悪化した。国中の中産階級(ブエノス・アイレスだけでも少なくとも500万人はいた)は、圧倒的に連合国(米英側)支持だったので、戦争終結により民主主義への強い志向をかきたて、ペロンを圧倒しかねなかった。日本が降伏して第二次大戦が終わった日、ペロンの辞任を要求する何千もの市民が街の中央を行進して行ったが、待ち構えていた、「ペロン万歳」「民主主義に死を」「くたばれユダ公」などと叫ぶ、ペロン支持の数百人の武装兵士に制圧されてしまった。大戦終結後、アメリカとアルゼンチンの関係は悪化した。アメリカの駐アルゼンチン大使のスプルーレ・ブレイドンは公然とペロンを批判し、1945年10月17日にはアメリカが後押ししたエドゥアルド・アバロス将軍による軍事クーデターにより一時拘束されたが、親ペロン派の軍人達や、ペロン支持を決議したCGT(労働組合の連合組織)のゼネスト、そしてペロンの釈放を求めて五月広場に大挙した労働者達による後押しを受けて、エビータが、国民にラジオでペロンの釈放を訴えたことなどにより、クーデターは数日間で失敗、釈放された。 ペロンは1946年3月大統領に当選した。大統領就任後は労働組合の保護や労働者の賃上げ、女性参政権の実現、英国系、アメリカ系などの外資系企業の国営化、貿易の国家統制などの政策を推し進め、労働者層から圧倒的な支持を受けるが、一方で独裁政権を敷き反対派を強制収容所に投獄した。この政策から「左翼フアシスト」と一部では評される。民族主義に基づく民族資本産業の育成、外国資本の排除(アルゼンチン国内のイギリス系鉄道の国有化等)など、ファシズムに共通する点が見受けられるが、ファシズムか否かでは論議が分かれる。またポピュリズム的傾向も見られた。なお、ユダヤ人に対する迫害には、毅然と反対した。しかしその後、連合国により国際指名手配されていたものの、イタリアの極右政党幹部リーチオ・ジェッツリなどの手を借りて逃亡してきたドイツ戦犯を多数匿い、アルゼンチンの軍や治安機関の育成に当たらせていた。ドイツ戦犯の逃亡を助けた背景には、第二次世界大戦中にドイツからの支援を受けていた上に、ドイツの科学技術を獲得したかったからだと言われる。当時のアルゼンチンは、第二次世界大戦中の輸出によって富裕国になり、それで得た外貨によってこれらの政策を進めたのだが、じきにに使い果たしてしまった。1949年頃からはアメリカやカナダの増産に伴いアルゼンチンの食糧輸出は不振となってインフレがおこった。こうして次第にペロンは苦境に追い込まれていった。 ペロンはアルゼンチンに正負共に大きな遺産を残したものの、ペロンの登場まで政治の枠組みの外部に置かれていた国民には愛され、ペロンの死に当たっては全国から100万人以上の支持者が葬儀に参列し、国会議事堂周辺には数キロにわたる行列ができた。 次ぎのページへ |