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日本とアルゼンチンとの関係は、1859年(安政6年)に遡る。しかし、これは一人の日本人船乗りがアルゼンチンに上陸して、そこが気に入って住みついたと言う話であって、本格的に移住者が渡り始めたのは1898年(明治31年)2月3日に日亜修好条約が締結されてからの1900年(明治33年)以降である。しかし、1910年(明治43年)頃には、1908年の笠戸丸による第1回ブラジル移民の中で、契約に不平を持った人達160名がアルゼンチンに流れ込んできて、かなりな醜態を繰り返していた。 ![]() 1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発した。当時は各国とも戦争の先行きに不安を抱き、世界中が不景気であった。戦争が長引くにつれ、それまで南米貿易の覇者であった英国とドイツが交戦国となり、軍需品の製造に追われたため、ついに商品の輸入が途絶してしまった。逆にアルゼンチンは小麦、玉蜀黍、牛肉、バター等の食料品と羊毛、牛革など被服原料を欧州に輸出して莫大な利益を上げた。これに日本人も目をつけ、1916年ころから大企業、商社が競ってアルゼンチンに進出してきた。 ![]() 1930年代に入ったブエノス・アイレスは、南米大陸随一の文化都市の様相が濃く、南半球有数の芸術と文学の中心地であった。広い並木道と細い通りが見事に交差し、ラ・プラタ川に近いミクロセントロと呼ばれる繁華街を横断するコリエンテス通りやラバージェ通りには沢山の劇場や映画館、それにキャバレーなどががひしめきあっていた。歴史として振り返るとき、この時代は、不世出の大歌手 カルロス・ガルデルが大活躍をした時代であり、アルゼンチン・タンゴの絶頂期でもあった。米国やヨーロッパから南米のパリと評価されたこの街は、美しい公園、洒落た商店、朝まで賑わうレストラン、角々に広げる 露天の花売り、文化水準の高さのバロメータでもある数多くの本屋、カフェテリーア、コンフィテリーアなどが、華麗な大理石や御影石に飾られた建物と渾然となり、かもしだされるイタリア風の情熱的雰囲気に満ちていた。 ![]() 1930年(昭和5年)には、こうした日本人経営のカフェ店は高級カフェ店として全国で約100軒に達して、日本人経営のクリーニング店と同様に有名な存在になり、 全国の主要都市では、カフェ・ハポネスの看板がいたるところで見受けられた。 【写真説明: 右上、アルゼンチン建国100周年の祝賀にブエノス・アイレスに来た軍艦「生駒」。右下、第二次世界大戦勃発を報じるブエノス・アイレスの新聞。 左、1910年代の邦字新聞社内部の様子。】 次ぎのページへ |