その5
 
   日本とアルゼンチンとの関係は、1859年(安政6年)に遡る。しかし、これは一人の日本人船乗りがアルゼンチンに上陸して、そこが気に入って住みついたと言う話であって、本格的に移住者が渡り始めたのは1898年(明治31年)2月3日に日亜修好条約が締結されてからの1900年(明治33年)以降である。しかし、1910年(明治43年)頃には、1908年の笠戸丸による第1回ブラジル移民の中で、契約に不平を持った人達160名がアルゼンチンに流れ込んできて、かなりな醜態を繰り返していた。そのため、日本人は習慣、信仰等においてアルゼンチン人とは全く反対の人種であり、受け入れるべきではないと主張する新聞も現れた。こうした影響を受け真面目な日本人は苦労したのである。1910年はまた、アルゼンチンの 建国100周年に当る年でもあり、式典に参加するため軍艦「生駒」がアフリカ周りで到着した。乗組員がブエノス・アイレスの街を行進すると、”日本海海戦の勇士”として”ハポン万歳”の歓声をもって迎えられた と報じられている。その後次第に移住者は増え、1910年代半ばになって漸く日本とアルゼンチンとの貿易が貿易らしい体裁を整えてきた。

 1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発した。当時は各国とも戦争の先行きに不安を抱き、世界中が不景気であった。戦争が長引くにつれ、それまで南米貿易の覇者であった英国とドイツが交戦国となり、軍需品の製造に追われたため、ついに商品の輸入が途絶してしまった。逆にアルゼンチンは小麦、玉蜀黍、牛肉、バター等の食料品と羊毛、牛革など被服原料を欧州に輸出して莫大な利益を上げた。これに日本人も目をつけ、1916年ころから大企業、商社が競ってアルゼンチンに進出してきた。さらには1917年に大阪商船がアルゼンチンへの直行航路を開設し、日本郵船もブラジル移民船をアルゼンチンまで延長してきた。こうして日亜貿易の黄金時代がやってきたのである。1918年(大正7年)にヨーロッパの戦争が終わった後も交戦国の経済の回復は進まず、さらには戦争の副産物とも言うべき労働問題や思想問題がからんで、製造業も回復しないため、日本製品のシェアーが広がり、1918年から20年にかけては日本からアルゼンへの輸出額は数千万円を突破し、日本の貿易事業者は栄華の絶頂を誇っていた。

 
1930年代に入ったブエノス・アイレスは、南米大陸随一の文化都市の様相が濃く、南半球有数の芸術と文学の中心地であった。広い並木道と細い通りが見事に交差し、ラ・プラタ川に近いミクロセントロと呼ばれる繁華街を横断するコリエンテス通りやラバージェ通りには沢山の劇場や映画館、それにキャバレーなどががひしめきあっていた。歴史として振り返るとき、この時代は、不世出の大歌手 カルロス・ガルデルが大活躍をした時代であり、アルゼンチン・タンゴの絶頂期でもあった。米国やヨーロッパから南米のパリと評価されたこの街は、美しい公園、洒落た商店、朝まで賑わうレストラン、角々に広げる 露天の花売り、文化水準の高さのバロメータでもある数多くの本屋、カフェテリーア、コンフィテリーアなどが、華麗な大理石や御影石に飾られた建物と渾然となり、かもしだされるイタリア風の情熱的雰囲気に満ちていた。

 アルゼンチンが こうした爛熟した文化を享受している一方で、先に述べたように、ブラジルに移住した日本人の中には現地の事情に不満を抱く者が大勢おり、彼らはアルゼンチンに再渡航してきた。そして、暫くの間アルゼンチン人経営のカフェ店で働いて、ノウハウを学び資金を貯め、カフェ店を開業した。こうした カフェ店は、「カフェ・ハポネス」、「カフェ・東京」、「日本」、「大阪」、「横浜」、「さつま」、「東郷」、「長崎」、「ミカド」、「大和」などの名前をつけ、一見して日本人経営の店であることが分かり、 旅行者などに有り難がられた。
 1930年(昭和5年)には、こうした日本人経営のカフェ店は高級カフェ店として全国で約100軒に達して、日本人経営のクリーニング店と同様に有名な存在になり、 全国の主要都市では、カフェ・ハポネスの看板がいたるところで見受けられた。

 
【写真説明: 右上、アルゼンチン建国100周年の祝賀にブエノス・アイレスに来た軍艦「生駒」。右下、第二次世界大戦勃発を報じるブエノス・アイレスの新聞。 左、1910年代の邦字新聞社内部の様子。】
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