その6
 
  アルゼンチンにおける日本人経営のカフェ店の起源は、1912年(明治45年/大正元年)7月に、山中助次郎、伊東信介、知念政次、安田徳次の4人が共同でブエノス・アイレス市の ボリーバル通りで 「カフェ・ミカド」を開業したのが始まりである。山中助次郎氏は先の笠戸丸でブラジルに渡り、後アルゼンチンに再移民してきた人である。 しかし、この店は翌1913年には現地人に売り渡されてしまった。カフェ・ミカドから1か月遅れて「カフェ・大和」が開業したが、これも長続きしなかった。しかし。この二つのカフェ店の誕生は日本人経営の カフェ店の始祖として、日本人移住者の発展史上に特記されるべき出来事である。

 
1913年にアルゼンチンに移住してきた日本人の中に、福島県出身の三浦与吉氏がいた。彼はその後同県人の、水野武義、入江良次、金子良平の3人と共同で三浦合資会社を設立し、自らオーナーになった。そして、ブエノス・アイレス州メルセデス市に 「カフェ・東京」 を開店したところ、これが大成功し、さらにフニン市、ルハン市、リンコン市に支店を開いたが、いずれも大繁盛した。 特にフニン市の店は、メルセデスの本店よりも大きく、テーブル50台、音楽部があり、市内随一のカフェ店であった。オルケスタがタンゴを演奏する舞台があって、専属の「オルケスタ・デ・セニョリータ」というバンドが演奏するときにはサロンが満員になったと伝えられている。

 1930年代に入り、小学校を卒業したエビータは、まだあどけないティンエイジャーとは言え、既に美しい少女に成長していた。この彼女に大勢の人が集まるカフェ店と知り合う機会は容易に訪れたのではないかと思える。縁があってエビータは三浦氏が経営する「カフェ・ハポネス」で働くことになった。 しかし店は自分が住んでいるフニンの店ではなく、ブエノス・アイレスとメルセデス市のほぼ中間にあるルハンという町の店であった。エビータがここで「ビトロレーラ」として働いていた期間は残念ながら資料がないので不明である。ビトレーラが軽蔑される職業であること、しかし、店長の溝口氏をはじめとする日系店員達が優しく親切に扱ってくれたことはすでに述べた。しかし、この話は極く限られた少数の人しか知らない秘話で、日本人でも、店の従業員と三浦氏の家族くらいなものであった。
 
  エビータの秘密にまつわるエピソードを紹介する。『ペロンが大統領に就任した後、エビータがごく親しい人達を集めてお祝いのパーティーを開いた。その席には三浦氏も招かれた。直接世話になった溝口氏が招かれなかったのは、エビータが名前を忘れたためだろうと、日系人の長老は言っていたが、真実は分からない。その帰りのこと、三浦氏が酔ってバスを待っていたとき、バスに接触して転んだ。これが、日系社会に大げさに伝えられ、「三浦さんが殺されそうになった、昔のエビータを知っている人間はいつか暗殺される、という話は本当だったんだ!」」と言う噂があっと言うまに広がった。この報を聞いたブエノス・アイレスの邦字新聞「亜爾然丁時報」の記者が、地方の日系人がブエノス・アイレスに上京したときに泊まる、日系人経営の旅館「福原旅館」に電話で問い合わせたところ、本人が出て「ちょっとバスに触れただけだ、心配ない」と元気に答えた。』 という話がある。これも、エビータが、過去には触れられたくなかったことを象徴するエピソードの一つである。逆に言うと、エビータはそれほどまでに、子供の頃の人生の暗い部分を隠しておきたかったということにもなる。

 エビータの敵(主として中産階級の女性達)は、「母親はコンクビーナ(愛人、情婦)、エビータはプロスティトゥータ(売春婦)だ」と最大の侮辱を与えたりしたので、過去のことを知っていそうな人間は、いつかは殺されると言った噂が流されていたのである。「アルゼンチン同胞80年史」によると、三浦与吉氏は1950年に不慮の死を遂げたと書かれている。暗殺であるはずはないが、”不慮の死”とはなんとなく因縁めいている話である。

 1996年にパラマウント映画が製作した「エビータ」が話題になった頃、NHK取材チームがブエノス・アイレスを訪れ、エビータを知っている日系人を取材したが、エビータがカフェ・ハポネスで働いていたと言う話は遂に誰の口からも出なかった。また、サン・ビセンテのペロンの別荘で働いていた日本人は既にみな故人になっており、エビータの秘密を知っている生き証人は誰もいない。今ではもう、神話のカテゴリーに入ったと見るべきなのであろう。

【写真説明: 左、ルハン大聖堂、正面は駐車場兼参道、右側の建物は博物館。 右、エビータ20歳頃のもの。】
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