私がこの「春日のピアノ」に関心を持ったのは偶然の出来事からである。私は1985末まで、会社のアルゼンチン事務所長として、約4年間ブエノス・アイレスで暮らしていた。ある日、家族とドライブをしながら、ブエノス・アイレス市内から北に約30キロほど離れたリゾート地”ティグレ市”を訪れた。そこはリゾート施設ばかりでなく、博物館や図書館などが色々ある文化の香り豊かな 景勝地である。パラナ川に面した緑地にある海軍博物館(Museo Naval)に入って,日本では珍しい帆船や海賊船の大砲のようなものなどを見物しながら、「思い出コーナー」と言う部屋に入って驚いた。 壁一面に、昔の日本海軍の軍艦旗と、軍艦同士の海戦を描いた油絵が2枚掛かっている。そしてその下に1台の茶色の縦型ピアノが置かれていた。説明書きを読んだり、館員に聞いたりして、なぜここにピアノがあるのか、なぜ軍艦旗やら連合艦隊の海戦場面を画いた絵があるのかその理由が分かった。しかし、帰国後は、懐かしき駐在時代の一つの記憶として脳裏に残っていただけで、日頃特別な感傷を抱いていたわけではなかった。 

     「思い出コーナー」の内部。(1985.3) 
  ピアノは、日露戦争終結後5年経った1910年(明治43年)6月、日本の軍艦「生駒」が建国100周年の祝賀ムードに沸くアルゼンチンまで運んで海軍に返還した。アルゼンチン海軍はこれを博物館に保存し、日本とアルゼンチンの友情の厚さを永遠に記念するという、爽やか歴史物語が残されている。 「思い出コーナー」のピアノの周囲には、軍艦旗と、明治、大正、昭和3代にわたって活躍した「和田三造画伯(経歴は後述)の海戦画が2枚も飾られている。軍艦旗は、はためいているかのように、中央部を弛ませて壁に留められ、額の1枚は砲撃で焼け落ちた三笠のマストを使って作られたと言われ、焼けこげが何箇所も残ったままである。
和田三造画伯の日本海海戦図、額は「三笠」の焼け焦げたマストを使ったもの。
 そして、2004年、2005年がやってきた。それほど大きな声ではないがそこここで、 古い人間の間で、新聞紙上で、テレビで、日露戦争100周年とか日本海海戦100周年とかの声が聞こえ、インターネットの記事も増えてきたように思えた。そして私の脳裏にも、あのティグレの海軍博物館に あったピアノが蘇ってきた。以前上映された映画「戦場のピアニスト」というタイトルを思い出し、軍艦とピアノという奇妙な取り合わせに興味を感じ、改めてその来歴が知りたくなり資料探しを始めた。
  しかし、日露戦争の記録は、傑出した小説:司馬遼太郎著「坂の上の雲」を始め、海軍の日本海海戦や陸軍の203高地争奪戦などの模様を描いた本は沢山あるし、インターネットのホームページにも色々と公開 されているものの、ピアノに関する記述があるものは皆無である。図書館やインターネトでも随分と探したが、探し方が悪かったのか、ついに見つけることができなかった。
 最後の手段として、ピアノのある海軍博物館に直接あたってみようと思い、博物館に比較的近い処に住んでいる、親しい友人に依頼して博物館にピアノに関する資料を照会してもらった。その結果、博物館のあるティグレ市のサルミエント公衆図書館が発行するPR用雑誌の2005年4,5月合併号に、「春日のピアノ」という題名で 、日本海海戦の模様を書いた特別記事が発表されたことを知らされた。筆者は博物館の理事であるワルテリオ・ゴンサーレス氏で、友人の計らいで、私にも原稿のコピーを送ってくれた。そして、 このピアノは特別注文で春日に乗せたものではなく、先にも述べたとおり、軍艦内部の調度品の一つとして備えつけられたものなので、特別なエピソードなどはないことも判明した。  
「和田三造筆」の銘板を拡大したもの。
 日本の年配者だけでなく、アルゼンチンのシルバー世代にとっても、100年前に自国が譲った軍艦が大活躍した歴史は懐かしいものである。しかも、 この海戦で旗艦「三笠」についで大きな被害を受けた日進には、観戦武官として、ドメック・ガルシア海軍大佐が同乗し、海戦模様をつぶさに観察、後に詳細な報告を纏めている。ドメック・ガルシア大佐は、日進、春日がまだ日本に譲られる前に、リバダビア、モレーノと言ってイタリア・ジェノバのアンサルド造船所で建造中に、監督官として駐在していた将校であり、さらには英国海軍兵学校で東郷平八郎提督 と机を並べていたと言われる因縁から、日進への乗艦観戦が許可されたものだと思う。

  ガルシア大佐の観戦記録は優れた海戦資料として海上自衛隊が教材に採用した他、一般にも販売されている。図書館のPRのためとは言え、ティグレ市の図書館が、100周年特集記事として「春日のピアノ」 を発表したのは誠に時宜を得た企画だと思う。そこで本ホームページは、PR誌に載った記事を翻訳し、集まった資料を紹介して、日本とアルゼンチンの100年以上にわたる友好関係を改めて思い起こしてみようと思う。

 スペイン語の原文には難解な箇所もあり、浅学の私には適切な翻訳ができない部分もあることを予めお断りし、お許しを頂きたいと思う。
  赤字( )は筆者注。


    
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和田三造 (わださんぞう)
  1883〜1967(明治16年〜昭和42年) 明治、大正、昭和の洋画家。兵庫県生野町に生まれた。1900年、福岡の中学校を中退後上京して白馬会洋画研究所に入る。研究所で黒田清輝に師事。次いで東京美術学校に入学。 青山繁や山下新太郎らと同期であった。1904年同校西洋画科選科卒業。1907年第一回文部省美術展覧会(文展)に出した「南風」が2等賞。翌年の第二回文展でも2等賞になる。翌年文部省留学生として渡欧、 1915年(大正4年)に帰国した。1917年文展審査員となる。以後文展や帝国美術院展覧会(院展)に出品する一方で色彩研究に尽力した。1927年(昭和2年)帝国美術院(のち芸術院)会員。1932〜1944年 東京美術学校教授(図案科担当)。1945年日本色彩研究所を設立。和田の色彩研究の成果は「色名総鑑」などに表れた。1955年映画「地獄門」の色彩デザイン。晩年は油彩画の他、工芸や水墨画にも活躍。 1958年文化功労者となった。