| 「春日」、「日進」がアルゼンチンから譲渡されたエピソードの「こぼれ話」。 いろいろな記録や文献に「日本は重巡洋艦2隻をアルゼンチから譲ってもらった」とあるが、金額の記入がないものが多い。日本は即金で払うと言ったが、ロシアは分割払いでと申し入れたので駄目だったという記録がある。日本は 152万ポンドを即金で払った(注)。 ロシア海軍に勝つためには、この最新型の巡洋艦の買い入れが絶対に必要だという軍部の要請に応じ、外務大臣の特別裁定で買い入れが決められた。支出については、議会の承認などを待っていたのでは間に合わないので、大蔵大臣の責任による決定で支出された。 (注)152万ポンドは当時の大金であった。当時の世界通貨は英ポンドが基軸で米ドルの倍以上と言われていたが、 日本円のレートが不明なので、正確な金額は分からない。 当時のアルゼンチン海軍大臣ベトベテルは、ロシアに売るよりは日本に売ったほうがずっとよいと主張した。体は小さいけどみな正直勤勉な人間ばかりだからと体験を語った。それは、その前年に、アルゼンチンの練習艦サルミエントの艦長として訪日し、明治天皇に拝謁を賜り、日本側の心からの歓迎を受け、親日家になっていたからである。また、イタリア、スペイン、フランスなどのラテン系人種が殆どのアルゼンチン人は、スラブ系のロシアには好感をもっていなかったからだとも言われている。 イタリアのジェノバの造船所で建造された春日と日進は、日英同盟を背景に英国籍の軍艦として、英海軍のリー中佐が日進艦長に、ペインター少佐が春日の艦長に就任し、甲板部作業は英国人、機関部作業はイタリア人が担当した。 1904年1月8日、建造の監督をしていたドメック・ガルシア大佐がアルゼンチン海軍代表となり、松尾海軍総監の間で正式な引渡し式が行われ、ただちに、スエズ運河に向けて出発した。 ところが、すでに両艦のジェノバ出航を知らされていたロシア・バルチック艦隊所属の旗艦オスラビア が、進路を遮るような航行を始めた。同艦としては、日進、春日を?沈したかったが、日英同盟により両艦の艦長が英国人だから沈めるわけにはいかなかった。 地中海の英国基地マルタ沖を通過すると英巡洋艦キング・アルフレッドが現れ、両艦とオスラビアの間に割り込み、3国の軍艦が 列になってスエズ運河の入口ポートサイドへ向かった。ポートサイドに先回りしたロシア軍艦は石炭の積み込みをしようとしたが、はしけや石炭はすでに、英海軍によって日進、春日のために予約されており、これらを管理する英国は両艦に石炭を満載させて出航させた後、ゆっくりとロシア艦の石炭積み込みを開始した。スエズ運がに入った両艦を見送り、キング・アルフレッドは、「無事に本国に到着することを祈る」と告げ進路を西に変えて別れた。 護衛艦がいなくなり艦内には不安がただよった。リー中佐とペインター少佐に代わり鈴木貫太郎中佐(太平洋戦争終戦時の首相)と竹内平太郎大佐がそれぞれの艦長になった。鈴木中佐は乗組員に、「もしロシアの艦隊が現れたら君たちはどうする」と尋ねた。これには全員砲火をもって戦う、と答えたので、感激した鈴木中佐は、「それでは、日本に帰ったら皆の給料を倍にする」と約束した。 シンガポールで石炭を積み込む間にも、東京からの「一刻も早く帰国せよ」と矢のような催促を受け、 2月4日に出航した。一方、政府は2月10日にロシアに宣戦を布告した。同月16日、両艦は横須賀に入港、国中が両艦の入港を歓迎した。日比谷公園での歓迎会の後、両艦長は宮中で明治天皇に拝謁、旭日勲章が叙勲された。鈴木中佐は天皇に謁見の後、海軍省におもむき給料増額の許可を受けた。 日進、春日を引き渡した後、パリのアルゼンチン大使館駐在武官になっていたガルシア大佐は、本国から観戦武官として日本へ行くよう命令を受けたので、米国経由で5月 20日、横浜に到着、日進に乗り組み各海戦をつぶさに観戦した。 日進、春日はともに、第一艦隊の旗艦三笠以下の戦艦群のしんかりとして戦ったので、先頭の三笠と共に多くのロシア艦隊の砲撃を受け、何回も危険な目にあっている。ガルシア大佐は、その詳細な記録の他に、2年間にわたり海軍基地、造艦工廠、病院などを訪れ克明な記録をとり、 1400ページに達する報告書をアルゼンチン海軍省に提出した。 報告書は第一次大戦の後まで、厳秘扱いとされ1917年(大正6年)、日本の海軍の同意を得て、初めて公刊された。これは、日本海海戦その他の海戦だけではなく、日本海軍の戦争準備から教育、組織、艦内事情、衣服、食料までを調査し、海戦の戦略的考察から両国司令官の艦隊マネージメントの比較までを客観的に分析している。 そして、80年後、海上自衛隊の教育資料として邦訳されたが、日ア修好百周年を記念して日本アルゼンチン協会から「アルゼンチン観戦武官の記録」と題して出版された。 ご愛読ありがとうございました。”春日のピアノ”は日本とアルゼンチンの友好関係の長い歴史の貴重な証拠であります。今後、ブエノス・アイレスでこのピアノに会う事ができる方が一人でも多く いられることを祈っております。 |
参考文献:アルゼンチン・ブエノス・アイレス州ティグレ市、サルミエント公衆図書館発行月刊誌 「ペルスペクティーバ」2005年4/5月号 「日本アルゼンチン交流史 1998」 アルゼンチン国立海軍博物館公文書「ピアノの受領について(1931.5.19)」 志賀重昂著 「世界山水図(抜粋)」 (日本アルゼンチン協会提供) 学習研究社発行、岡本好古著「日本海海戦」 PHP研究所発行、柘植久慶著「旅順」 文芸春秋発行:司馬遼太郎著「坂の上の雲(第六巻)」 |
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