≪1918年6月22日≫ この日はアルゼンチンの建国以来はじめて、首都のブエノス・アイレスに雪が降った記念すべき日である。雪が降ったことを取り立てて書き立てることもないのだが、南米大陸の大西洋岸は、日本人には羨ましいほどの天災地変の少ない地域であることが言いたいのだ。(近年はそうでもなくなったようで、大雨や異常気温などの気候変動の影響を受けるようになってきている)。 南極大陸の地図をみると、鼠の尻尾のように細長く伸びている半島があるが、この先(北)がアルゼンチンとチリが合体する南米大陸先端のフエゴ島(火の島)で、そこから大陸が扇のように広がっている。アンデス山脈西側の太平洋岸には赤道の北のエクアドル、ベネスエラまで地震帯が走っているのに反し、大西洋側は固いプレートがカナダまで続いている。だから、ブエノス・アイレスのオベリスコも、リオのコルコバードのキリスト像も、ニューヨークの自由の女神もご安泰なのである。 それに、台風もこない。勿論日本でいう熱帯性低気圧のような強い風が吹くことはある。8月31日は日本の二百十日のような特異日で、”トルメンタ・デ・サンタ・ロッサ(サンタ・ロッサの嵐)がやってくる” と言われるが台風ほど強くはない。ラ・プラタ川の上流のパラナ川やウルグアイ川の増水のため下流のラ・プラタが氾濫することがまれにあるが、これの被害などは、北半球の天災とは比べものにならない。したがって、こうしてみると、少なくとも気象条件については、日本よりはずっと住みやすい国である。(ただ1980年頃から異常気象状態がしばしばあらわれるようになったとは言っている)雪が少ないこともその条件の一つと言えるかもしれない。 1918年の雪の日の出来事は記録を持っていないので想像するしかないが、アルゼンチン・タンゴの文献などにも、1918年というと、必ず”ブエノス・アイレスに雪が降った日”というようにコメントがついている。やっぱり、相当な出来事で大ニュースだったのだろうと思う。因みこの年はタンゴの絶対的名曲「ラ・クンパルシータ」が出来た翌年で、楽譜が残っている一番古いタンゴ「バルトーロ」が発表されたのが1880年だから、長いタンゴの歴史からみるとまだ創世記の時代で、カルロス・ガルデルが頭角を現し始めた頃である。この年は、後世に残る名曲が沢山発表されている。その中の一つにピアニストで作曲家のアグスティン・バルディが作った「ケ・ノーチェ!(なんて夜だ!)」と言うタンゴがある。 この日バルディは3人の友人とラ・プラタ競馬場に行った。その後、3人は遅い夕食を取り、バルディの乗ってきたフォードの車で一緒に帰ることにした。ところが、市内のペレイラ公園を抜ける途中で車がエンコしてしまった。修理屋を呼びに行くことも出来ない。その夜はかなり寒かったが、まさか雪が降るなんて、誰もが想像もしていなかった。写真や本でしか知らなかった雪を見て、3人は呆然とし、目がくらむような光景に圧倒されていた。それと共に、寒さと、一向に動こうとしないエンジンに困り果てていた。 このときバルディは初めての経験を生かそうと、たった今、頭に浮かんだばかりのタンゴの譜を口ずさみながら、他の事には目もくれず頭の中で作曲に没頭していた。数日後、バルディは友人のエドアルド・アローラスと喫茶店で会い、雪の夜に思いついた新たしいタンゴのことを話した。そして、まだ曲名が決まっていないことも。 暫く考えていたアローラスは突然、 「”Que' Noche!”だよ、アミーゴ、そうだ、”Que' Noche!”(なんてっ夜だ!)にしろ!」 と大声を上げた。 ブエノス・アイレスで初めての雪は、おそらく色々な初めての出来事やエピソードを生んだことだろうと思う。この新しいタンゴの誕生もその一つだったのだと思う。 【写真説明】左上:アグスティン・バルディ。あだ名は”チーノ”。チーノは日本人を含め東洋人を呼ぶときの蔑視形。なぜヨーロッパ移民がチーノと呼ばれたのかは分からない。しかし、親しい友人間では親愛の情を込めて呼ぶこともある。右下:ペレイラ・イラオーラ公園でエンコしたバルディの車と降る雪を描いた、ケッ・ノーチェのレコードジャケット。 |