地震の巣、ペルー太平洋岸を行く  ≪2≫
銀乃 川太郎

2.<日本人移民の夢の跡>
  
パチャカマックを過ぎて車はさらに南を目指す。道路は淡々としたカーブのない道が続き、人が住んでいるのか住んでいないのか分からないような家が寄り添った小さな部落が過ぎていく。海岸には全く人工の建築物はないが、ところどころに大きな岩が露出している。中にライオンが寝そべったような形の岩がある。ライオン岩というそうだ。150キロばかり走った頃、右側の太平洋岸に無人の燈台が建つ高さ30米ほどの小さな丘が見えてくる。これが、セロ・アスール(青い丘)である。この丘の下が、1899年に佐倉丸で最初の日本人移民780人がペルーに上陸した、サン・ビセンテ・デ・カニェテと言う町である。
  1800年代後半の日本は、工業の発展や教育改革が急速に進み、外国との通商関係が緊密になっていった。その一方で、軍国主義が台頭し軍隊が増強された。工業の発展や軍隊の増強は必然的に人口の増加をもたらした。しかし農地面積は殆ど増加しなかったため、農村から溢れ出した余剰人口は、代替労働を求めて都会に集まってきた。しかし、これらの労働者を救済する政策は不十分で、日清戦争により一時的に吸収した軍隊も、戦争が終わると、ただ失業者を増やすだけであった。彼らは食うための手段を自分達で探さなくてはならず、特に相続する土地のない農村の次男、三男達は悲惨で、その解決方法として考え出されたのが外国への移民であった。
  一方、19世紀末のペルーは、主要産業の一つである海岸地方の砂糖黍農場は、設備が近代化され生産量が増加してきた。さらに国際市場での砂糖の価格上昇により、砂糖業界は活気を帯びてきた。当時の海岸地方の砂糖黍畑の面積は75000ヘクタールで、労働者は約2万人であった。しかし、栽培面積の拡大に伴い労働力不足が決定的になってきた。それまでの労働者の大半は黒人奴隷であったが、19世紀半ばに奴隷制度が廃止され、これに変わる労働力として、マカオや広東周辺からの中国人苦力が導入されていた。これら中国人労働者の劣悪な労働環境は、マリア・ルス号事件(注)を契機として中国政府の知るところとなり、中国人移民を取り決めた「サウリ協定」は破棄された。 
  この代替策としてペルー政府は、アンデス地方の原住民を徴集したが、それでも不足を解消できず、日本の余剰人口を利用する事を思いつき、募集手数料1人あたり英貨10ポンドで、森岡移民会社などに募集を委託した。記録によると、森岡移民会社の移民勧誘員は、3年で300ドル稼げるとか、かなり旨い話で釣ったようにも言われている。 こうして集められた第一回目の移民790名が佐倉丸に乗り、1899年2月28日に横浜を出航した。移民が開始されるに当たり日本政府は、中国移民の実情を知っていたので、最初から移民の待遇に関心を持っていた。日本人移民自身もある程度の環境の変化や、労働の厳しさは覚悟していたようであるが、行く前の話とは大違いで、食事はパンと水だけだとか、寝る所は屋根がない莚の上であるとか、半分奴隷のような待遇の他、風土病やチブス、赤痢等が発生し、多くの仲間達が死んでいくのを見て次第に不安感が増し、監督者に反抗するようになった。
  これに対して農場主達は、武装ガードマンを雇い鎮圧しようとした。中にはピストルで殺された移民もいた。農場主達は中国人との問題を経験していたので、何とか解決しようとしたが、移民たちの不満は収まらず、家族達からも日本政府に陳情が寄せられので、1900年、日本政府の調査団がペルーを訪れ、全員を送還しようとした。しかし、農場主達が生活条件等の改善を約束したため、送還は実現しなかった。
  それでも、こうした環境に耐えられなくなった移民の中には、アンデスを越えたアマゾン奥地のゴム園で働けば高い賃金がもらえると言う噂を信じて農場から脱走し、着の身着のまま裸足で雪のアンデスを越え、ブラジル、ボリビアやアルゼンチンを目指した人達がいた。しかし、6000米を越す過酷な山脈を越えることができず途中で倒れ、未だにアンデスの山中に亡骸を埋もれさせたままになっている人もいると言う。これが、移民哀史で言う「ペルー下り」、或いは「ペルー流れ」である。
  しかしながら、日本へ帰っても農地を得られる保証もない人達は必死で耐えた。移民達の一般的な目標は、ある程度の資金を蓄え日本に帰ることであったが、様々な障害に会って希望を果たせぬまま、大勢の移民が遥かな異国の地で一生を終えた。森岡移民会社が行った渡航は、1899年から1923年まで前後80回にも及び、運んだ移民は合計16000人余りである。この他にも、明治移民公社が3航海997名、東洋殖民会社が19航海882名を送っている。3社による移民数は合計102航海、男子15655名、女子2302名、子供207名と記録されている。このような苦難に耐えて住み着いた意志強固な人達は、次第に現地社会に同化していき、その子孫は今では7万人を超えている。そして遂には日系人大統領まで誕生させた。1999年には最初に佐倉丸がペルーに入港してから100年目を迎えた。
  セロ・アスールへ登り遥かに見晴らすと、一面望洋たる砂漠が広がり表面は紫色に輝いて見える。砂漠にはいまだ成仏しない同胞の遺骨が、ただただ孤独に耐えて眠っているかもしれないのである。粗末な桟橋があったカニェーテの海岸近くには日本人子孫が経営していると思われる小さなレストランがある。中に入ると、壁一面に往時の写真が飾られている。日本では夢を持てなかった農家の次、三男を中心にした移民団は、夢を膨らませて上陸したに違いない。我々にはどう想像しても彼らの胸のうちを推し量ることはできないし、苦労を想像することも不可能である。
  ここからさら南へ160キロ行くと冒頭で述べた2007年8月の大地震が起きたイカで、そのまた南へ140キロの地点に地上絵で有名なナスカがある。太平洋岸の村や町は何処までいっても同じで、特徴がないので標識がなければ何処を走っているのか分からなくなる。今回の旅はここ、サン・ビセンテ・デ・カニェテまでで終わり。夕暮れのパンアメリカン・ハイウエーは左側(太平洋側)から運転席の窓に打ち付ける砂の音が一段と強くなっていった。
 
(注)マリア・ルス号事件1872年(明治5年)7月14日深夜、横浜港に停泊していた英国軍艦"アイアン・デューク"が一人の清国人を海中から救助した。その清国人はすっかり憔悴していて、自分が乗ってきたペルー船"マリア・ルス号"船内の待遇は動物同然であると訴えた。当時のペルーは太平洋側を除く3方をチリ、ボリビアなど5か国に囲まれ、しばしば国境紛争を繰り返していたため国力の充実を目指すラモン・カスティージャ大統領のもと、金銀の採掘や特産のグアノ(鳥の糞から作る燐酸肥料)、ペルー綿と称する原綿の増産に力を入れていた。しかし、ペルーは奴隷を解放した後だったため、これらに従事する労働者が不足しており、特に砂糖きび農場では極度の労働力不足に悩んでいた。そこで、国外移住を希望していた清国人に目をつけ、旨い話や脅迫まがいの手段で勧誘した。マカオを出たマリア・ルス号はペルーに向けて航行中、小笠原諸島付近で暴風雨に会い、前マストを折り航行不能になり、まだ国交の無い日本に緊急避難してきた。そして横浜港で脱走した者が英国軍艦に救助されたのである。 英国軍艦は、当時すでに国際的に禁止されていた奴隷貿易の疑いがあるとして日本政府に通告、これを受けて政府は、軍艦"東"を横浜港に派遣して、マリア・ルス号を出航停止させ船長のリカルド・ヘレイロを裁判にかけた。まだ裁判制度も確立されていなかった日本は、神奈川県令(知事にあたる)大江卓が、国交もなんらの条約も無いペルー人を裁くことになったのである。裁判は、大江卓の人権擁護思想の下に進められ、清国人は全て開放されて本国へ送還された。この事件が契機となって、日本とペルー両国は国交樹立の必要性を認め、翌1873年(明治6年)3月に修好条約締結のため、特使オレリオ・ガルシアが来日、同年6月19日、日秘修好条約が締結され国交が樹立された。この事件が後の、日本人移民が実現する伏線になっている。
【写真説明: 上:カニェテの町。 中:日系人経営のレストランの内部。下:カニェテ港の木造の桟橋(今はない)】
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