地震の巣、ペルー太平洋岸を行く ≪3≫ |
銀乃 川太郎 |
3.<恐怖の地震地帯> 日本は地震国だと言われているが、南米中米の太平洋岸の発生頻度とくらべたら、特に多いとは言えない。もっとも狭い日本の範囲と南北で1万キロ以上にもなる中南米太平洋岸とでは、密度では日本の方が多いかもしれない。 私の集めている資料によれば、1940年5月24日に、リマ近郊で起きた地震以降、約70年間に中南米で起きたM6以上の大きな地震は30回以上にもなり、そのうち一番多いのがペルーである。しかし、規模の点では1960年5月22日のチリ大地震のM9.5が史上最大と言われており、津波が太平洋を完全に横断して三陸地方にまで押し寄せた。以下に1940年以降のペルーにおける地震の記録を簡単に示す。資料が不十分あため抜けたものや内容が整っていないものがあることをご了解頂きたい。ペルー以外の国(地域)で起きた地震については、次ページにて紹介する。 ★1940年(昭和15年)5月24日にリマ近郊を震源地とした大きな地震。数多いペルー地震の中でも、日本人移民と特に係わり合いのあった地震である。時代は太平洋戦争の前年で日本とペルーは複雑な国交関係にあった。たまたま地震の10日ほど前の5月13日、リマ市で大規模な排日暴動が起きた。原因は日本人理髪業組合の内部抗争が元であったが、現地人がこれに乗じて排日行動を起こしたもので、日系人社会に多数の被害がでた。被害から立ち直れず日本への帰国を余儀なくされた日本人移民もいた。 その10日後に起きた地震は、”罪のない日系人を虐めた天罰だ”という噂が流れた。科学的知識に乏しい妄信的カトリック信者の大衆は、余震の度に戸外へ飛び出し地面に膝まずいて手を合わせ改悛の情を表した。これにより暴動は収まったという歴史がある。怖いはずの地震が日本人に幸いした”神風”になった、という日本人ペルー移民史の一こまである。しかし、排日機運はその後も太平洋戦争への突入により一層激しくなっっていった。 *このあと1970年までの30年間に1度も地震起きていないはずはないと思うのだが残念ながら資料がみつからない。 ★1970年5月31日アンカシ地震。この地震はペルーの地震の記録の中でも特筆される地震である。 リマから北へ450キロに位置するアンカシ県で起きたこの地震は、マグニチュード7以上と言う大きなものであった。州都のウアラス市では45秒間も震動が続き、ウアラスから約50キロ離れたユンガイの町は、両側に連なるアンデスの山々が崩れ、低地にあったこの町は完全に埋没した。周辺のカラス、マンコス、カルウアスの町村も大被害を受けた。死者は5万人以上と言われ、ユンガイ町の復旧のため国連の呼びかけに応じた世界各国が救援活動を行い、埋まった町の上に新たに道を作ったりする作業が5年間も続けられた。 ★1974年10月3日 ペルー中部地震。日本人移民が最初にペルーに上陸した場所として知られる、カニェテの沖合いの深さ50kmの海底で発生した。M7.8 関東大震災並の大きい地震で、カニェテの海岸では海水が200メートルも沖合いに引いたということである。また、この日はたまたま1968年の軍事革命の6周年記念日だったが、この地震のため式典は中止された。リマ市の古い住宅はアドベ作りのため鉄筋が入ってないので地震に殆ど抵抗できず倒壊家屋が沢山でた。さらに、リマ南方へ30Kmの海岸にあるパチャカマック遺跡も太陽の神殿を始多くの城壁が広範囲に渡って崩れ落ちた。 ★1979年2月 中部地震。詳細不明。 ★1981年4月 東部地震。 ★1981年6月 中部地震。 1981年は中規模ながら2回も地震が起きている。実は、この前年の80年に米国の地震学者が ”1981年の8月頃ペルー沖でM9.9の大地震が発生する”、との予知を発表したため、ペルー海岸地方やチリなどでは一種のパニック状態となり、ペルー政府も米国に確認を求めた。その結果、それほど正確に予知できるものではないとの結論になったが、この年はペルーで2回、チリで1回、どちらも中規模の地震が起きたことを考えれば、米国の予知は半分当たったようなものだと言うことになり、この年は年末まで両国はかなり不安は日々を送ったということである。 ★1986年10月12日 リマ南南東地震。リマ南南東85k、M4.7、震源地はマラ南西25kの太平洋海底。被害はなし。 ★1990年5月29日 ペルー北東部地震。 M6.3 余震が20回以上も続き、余震の最大はM5.1であった。死者200名以上、行方不明800人、家を失った人々は15000人に達した。震源地はエクアドルに近いモジョンパ付近。地震の翌日の30日は死者5万〜8万人を出したアンカシ地震の20周年目にあたり、政府は追悼記念行事を準備していた。 ★1991年4月4日ペルー北部地震。この地震は2回あり、1度目はM5.5、2度目はM6.2,死者は30人以上で負傷者は多数と報道された。 ★1996年10月12日 リマ南東450Kのナスカ周辺で起きた強い地震。震源地はイカ市の南東約100k。M7.3。死者は少なくとも7名、負傷者は約500人であった。ナスカ周辺一帯には小さな金鉱山が多く、落盤などで約800人の鉱山労働者が閉じ込められたため死傷者の数が増大した。リマ南方500kのウアン鉱山でも落盤があり300人が閉じ込められた。のリマ南東部地震などが発生している。 ★2001年6月23日 南部のアレキーパを中心とした強い地震。震源地はアレキーパに近い太平洋沿岸の町オコニャの北西約80k、M7.9.少なくと47人が死亡、550人以上が負傷した。アレキーパでは崩れた壁の下敷きで22人が死亡、モケグアでは16人、タクナでも9人が死んだ。その後津波の被害が広がり、海岸部の被害が相次いだ。家を失った人は46400人、津波の死者は39人、行方不明20人、津波が襲ったアレキーパの西100kのカマナでは潮が大きく引いたため住民は高台へ避難した後に轟音とともに3階建ての建物に匹敵する津波が押し寄せた。 ★2006年4月22日 ウヒナス火山が爆発。噴煙は1000m以上の上り、広範囲に灰が降った。 ★2007年8月15日 リマから凡そ300キロ南のピスコ市とイカ市の中間あたりで起きた強い地震。M8.9で最終的な被害は、死者595人、行方不明318人、負傷者1500人以上、倒壊家屋76000棟以上、家を失った人々は16666人以上に上ったと発表された。アドベ(日干し煉瓦)作りの家に被害が集中した。イカでは夕刻のミサ中に教会が崩れ逃げ遅れた人々が多数犠牲になった。20秒程も大きい揺れがあったリマでは人々が路上に飛び出して抱き合ったり、泣き出したりしたと言う。 ペルー以外でも21世紀に入ってからも2001年1月と2月にもエル・サルバドルで大きな地震が起きたし、2003年1月にはメキシコの太平洋岸でM7.8の大地震が起きている。全く微動だにしない大西洋岸の地域と 2〜3年に1回は大きな地震に襲われる太平洋岸地帯とは、ライフラインや建造物などの建設費用を始め、社会的インフラなどのコストが物凄く違うだろうと思う。パンアメリカン・ハイウエーが経済力が弱い国が並ぶ太平洋側にあったのが不運で、大西洋側に作られていればもっともっと立派な道だったかも知れない。 私はかって、この道をチリのプエルト・モンからコロンビアのカルタヘーナまで走るのが夢であったが、実現しないまま歳だけが重なってしまった。もはやその願いはパチャカマックの砂のようにはかなく消えてしまった。 この章を書くにあたり色々と資料を集めたので、このページの始の方で約束した通り、1940年のリマ直撃地震の後にペルー以外の中南米で起きた大きな地震を発生年月順に述べてみようと思う。次ページを参照して頂きたい。 |
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