No.1 *赤い太字の表現は関連写真を掲載してあります。 キュ−バとカンクン、グアテマラそしてコスタ・リーカへ行こうと思いたった。カリブ海の西端に近いこれらの国・地域を選んだ目的にはそれぞれ理由がある。みな違った特徴を持つ国だからだ。キュ−バはラテン音楽の発祥の地だし、 カンクンは大西洋岸でもっとも新しい最大のリゾ−ト地であり、グアテマラはアステカ文明発生の地であると共にインディヘナの民芸品の宝庫であり、コスタ・リーカは地球上で最も自然の美しい国とされているからである。 自分でプランを立てる旅の楽しみは、 その計画を具体的に練り始める時から始まるものだ。今回も知り合いの旅行社から世界の航空機の時刻表をもらった時から始まった(この時刻表は毎月発行。訪問地を選び、聞く楽しみ、見る楽しみ、買う楽しみを考え、妻の希望を入れ 、最も合理的な順序を組み立てては飛行機便の有無を調べ、幾度となく思考錯誤を繰り返した。その結果、全部の宿泊数から見て、高齢者としては健康維持に問題が起きるかもしれないことを心配して、コスタ・リーカを諦めることとし、最終的に日本からJALの直行便があるメキシコを起点とする、ハバナ〜カンクン(メキシコ)〜グアテマラの周遊に決めた。このメニュ−で観光会社(メキシコ観光)に予約を依頼、一切の準備が完了したのは、その年の1月も半ばになっていた。 旅はこの日程に寸分も狂わずに進められ、事故病気もなく、十分に目的を果たした上に、予想以上に収穫の多い満足できる旅行となった。全く雨に降られず、毎日の予定がそれぞれ特徴的なことばかりで、私にとっては5回目、妻には2回目のメキシコにおいてさえも初めての経験や見聞があり、これまでのどの海外旅行よりも多くの収穫があり、頭の中にはそれらの記憶がびっしり詰まり、帰国後も暫くは私も妻も毎夜の夢の中にそれらが現れた。このレポートは、かなり時間が経ってはいるが、その素晴らしい旅を思い出した日記である。 2007年2月17日(木) 〈成田発〜メキシコ到着〉 バンク−バ−経由メキシコまで合計14時間15分かかった。バンク−バでは日本人乗客の大半が下り、代わって外人が大勢乗り込む。日本とメキシコの時差は15時間なので、2月17日と言う日は、1日が39時間ある勘定だ。日本を発ったのが15日18:15分でメキシコ着が同じ日の17:30分なので、時差分よりまだ45分少ない勘定になる。くたびれるわけである。 しかし、この儲けたような時間は、帰りにばっちりお返しさせられることになる。 メキシコ空港の外にはタクシ−の客引きが沢山おり、振りきるのに疲れた。タクシ−チケットの売り場を探したが、タクシ−の客引きがトランクを運んでしまい、結局空港タクシ−の白タクに乗る。3年振りのシェラトン・ホテルまで25ドル(正規運賃は10〜15ドル)。シェラトンホテル内にある久保宝石店で店主の久保さんや息子達に3年ぶりで会い早速お喋り、土産のカステラ、佃煮、ふりかけなどを渡す。疲れたのでホテルの外に出る気にならず、レストランでワインを1本頼み、ピザとスパゲッティを食べる。結構美味しい。飛行機の中でウイスキ−のロックをWで2杯、ワイン小瓶を2本、ビ−ルを1本飲んでいる。毎日酒の切れない日程が始まった。妻がロ−ソクが土産に良いとか言っていた。夜10時、疲れて少しふらつく。ぐっすり眠る。 2月18日(金) 〈メキシコ滞在〉 朝8時半頃まで眠るがなんとなく体がだるい。時差のせいだろう。朝食には懐かしいシェラトン・オムレツを注文。しかし、形が大きくなったが味は落ちた。作っているインディヘナ出身の小母さんは前と同じなので、覚えているかと聞いたら、ノ−と言われた。 旅行社へ行きカンクン、ハバナのバウチャ−を受け取り、2月28日の夜のマリアッチ広場ツア−を申し込む。ブエノス・アイレスのKさんの甥である、アルベルト氏の奥さんと会う。彼は3年前に会う約束だったのに会えなかった人だ。我々がハバナに行く頃、彼もハバナに来ると言う。夫婦とも同じい旅行社で働いている。携帯電話の番号を教えてくれた。 早速シェラトン・ホテルの隣のデパ−トでFさんに頼まれたコンピュ−タ関連の本2冊、マリアッチとボレロのCDを6枚買う。妻は久保さんの店で早速物色を始め、自分と娘達のペンダントなどを買う。私は壁掛けの額 。ソナロッサを散歩し、民芸品の店で妻の友人の土産にマリアッチ人形や、私が以前から欲しかった骸骨の人形を買う。ソナロッサ周辺は以前より汚くなったような気がするが、ポリスが増え白バイも沢山いるので旅行者には心強い。警官が妻に日本語で話しかけてくる。歩いている男はス−ツ姿が多いが、女はメ−ド風なのが多い。靴磨きが沢山いてしつこく付き纏うのには参った。 ホテルで一休みし、明日からの周遊が終わり、またここへ帰るまで、久保宝石店に荷物と土産の箱を預ける。夕食はこれも久し振りの和食レストラン富士へ。焼きうどんと焼きそばを頼んだが不味くなったのに驚く。持参の醤油とソ−スが役立った。干瓢巻きには胡瓜にアボガド、えびが入っているし、鉄火巻は鮪が大きく飯は水っぽい。さらには海苔が歯で咬切れないほど固いのにびっくり。板前が全員メキシコ人なのでは仕方がないか。 この日だけぱらぱらと雨が落ちてきた。妻が路上の車に近寄ったら、いきなりピ−ピ−と大きな音が鳴り出し驚いた。明朝は早いので菓子パンを買い4時に目覚しをセットして早めに寝た。 2月19日(土) 〈メキシコ発〜ハバナ到着〉 午前4時に起床。4時40分チェック・アウト。まだ道は空いている。5時に空港に着いた。ハバナ行きのカウンタ−に29人の日本人ツア−がいた。空港税が2人で68ドルとは高い。メヒカ−ナ航空のエアバスは一度ユカタン半島に入り再び真っ青なカリブ海を一跨ぎしてキュ−バ島に入る。上空から見る海の青さの素晴らしさに感激し興奮した。 いろんな案内書には、キュ−バの入国にはホテルの予約証明だとか、税関申告書にカメラの持ち込み台数だとか、持参するお金の額などを書かなくてはならないとなっていたが、何ということはない。旅行社で貰ったツ−リストカ−ドを提出し、帰りの航空券を見せるだけだ。それにしても荷物検査が全くないのに驚いた。しかしトランクを運ぶカ−トを使うのに1ドルかかる。外国人観光客からは事あるごとに外貨を頂く政策のせいだろう。日本人ツア−の人達は宗教団体の連中だそうだ。こんな所まで何しにやって来たんだろう。得体の知れないグル−プである。 空港は9年前にロ−マ法王が来たときに新築したと言う。旅行社支店のマリアさんが迎えに来ていた。ホテル・ナシオナル・デ・ク−バまで13km、車はベンツだが古くて汚い。ナシオナル・ホテルはさすが伝統のあるホテルである。さしずめ、キュ−バの帝国ホテルと言うところか。メキシコ湾に面した庭が素晴らしい。飲み物を飲みながらマリアさんとスケジュ−ルの打ち合わせ。一休みして午後世界遺産に登録されている旧市内を案内してもらうことにする。明日の市内観光と重ならないように別のル−トを回る予定だ。 午後2時ホテルを出発。ハバナ湾の下を通るトンネルをくぐり、湾を守ったモロ要塞やその下の公園を見て、デパ−トと称する民芸品店などが集まった建物でキュ−バ・コ−ヒ−を買い、CD店でソン(キューバ伝統の音楽)のCDを買う。かって日本で人気のあった ”ブエナ・ビスタ・ソシアル・クルブ” のCDを尋ねたが、店員は良く知らなかった。自国の音楽でも海外の事情には疎いようだ。 市内の道路、建物なにもかもが汚い。みな米国の観光地として繁栄した時代に出来たものだが、革命後はその維持管理ができず荒れ放題という感じである。有名な革命広場に面した内務省の建物の壁にある ”チェ・ゲバラ” の電飾壁画は意外と小さい。妻が海岸通りで小さな女の子に手をつかまれたので写真を撮ったら、お金を欲しそうにするので1ドル札をやる。そばに母親がいて、どうもけしかけていたらしい。 旧国会議事堂のカピトリオに向かい合って貧民層のアパ−トがあり、その間の駐車場には、とっくに博物館行きになっていそうな1950年代の大型アメリカ車のタクシ−がずらりと並んでいる。テレビで知ってはいたが実物を目の前にすると、改めてキュ−バの経済事情の悪さを実感する。ホテル近くの中心街の交差点に長い行列ができている。聞くと、有名なアイスクリ−ム屋の”コッペリア”で、エラ−ドを買う人の行列だそうだ。平均2時間待つとか。ただしドルで買う人は窓口が別ですぐ買えるらしい。 ホテルに戻り、明晩のホテル内キャバレ−”パリシエン(パリジェンヌ)”の予約をした。午後4時過ぎ日本に電話した。 夜は楽しみにしていた、キャバレ−”トロピカ−ナ”だ。ハバナの南西部にある世界的にも有名な大きな野外の劇場で、出し物はキュ−バ音楽に乗った派手な踊りである。10時開演で約2時間、きちんとした順序にしたがって、隙間なくショーが繰り出されてくる。踊りを見て何となくリオ・デ・ジャネイロで見たサンバの行進を思い出した。ショーの終わりに日本でもお馴染みの女性歌手、オマーラ・ポルトウンドが舞台からお礼の挨拶をした。入場の際カメラを持参すると 5ドル払わなければならない。ビデオは10ドルである。ブエノス・アイレスから来たと言う熟年夫婦と相席になり話をすると、なんとベルッチ(ブエノスアイレス市内の通りの名前)に住んでいると言う。当然ながらラス・エラス通りを良く知っていた。写真を撮り住所を聞く。落ち着いたら送ってやろう。 ≪写真説明、上から: @ホテル・ナシオナル・デ・クーバ。メキシ湾に面した日本の帝国ホテルのような格式の高いホテル、宿泊客は殆が外国人。A世界遺産に登録されているハバナ市の旧市街。Bハバナ港の入り口。右側の砦は1589〜1630年に建設されカリブ最強と言われたモロ要塞。C革命広場に面した内務省の建物、夜にはチェ・ゲバラの顔がネオンに輝く。≫ |
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