No.3

2月21日(月) 〈ハバナ滞在〉  
  今日はハバナから150km西にある、ピナ−ル・デル・リオの観光である。7時半のバスが1時間も遅れた。ガイドは中年の威勢の良い小母さんだ。あちこちのホテルから客をピックアップして、 結局20人ぐらいになった。日本人の女の子が2人もいた。ハバナの街も汚いところばかり見て来たが、西へ向かうと瀟洒な家もある。やはり全部を見ないと評価はできない。分離帯もインターチェンジもない高速道路を走る。 ガイドの小母さんは、殆ど喋りっぱなしだ。もっともスペイン語と英語で同じことを喋るので、中身は実際は半分なんだが。マイクの音声が悪くてよく聞き取れない。
  途中1度、土産物屋などが集まっている日本で言へば ドライブ・インのような所に停る。椰子の実を大きなナイフで切って中の汁を飲ませる。私はかってパナマでこれを飲み、腹をこわしてひどい目にあった経験があるので飲まなかった。硬い木の棒が2本1組で拍子木のように叩く楽器を買う。 なかなか大きな音が出る。妻が土産に2組買った。ピナ−ル・デル・リオ市は大きな街で、有名な葉巻工場があり内部が見学できる。作業している
工員は女性が多い。1本1本手で巻いて作る。 写真を撮ると机を叩いてチップを要求するのは、あまりお行儀の良い格好ではない。こんな光景は外国からの観光客に対して良い印象を与えないだろう。 娘の夫に葉巻の箱を土産に買う。売店でラム酒の試飲がある。ストレ−トはかなり強い。
  バスはビニャ−レス渓谷まで50kmの山道を軽々と登る。周囲は煙草と玉蜀黍畑ばかりだ。展望台からの眺めは素晴らしい。広々した草原の遠くに帽子を被せたような丸い山が連なる、奇妙な、そして雄大な光景である。さらに進むと、岩山の斜面に極色彩の
ペンキのようなもので描いた絵が現れた。何の目的で何をデザインしたのか分からない。昼食は”インディオの洞窟”と称するレストランで食べる。ブラジルやパラグアイでよく食べるマンジョカ芋が主食である。 食感はジャガイモに似ているので、余り現地食を食べない妻も気にいったようだ。新婚のスペイン人夫婦と相席になった。女のほうが日本に興味があり色々と聞いてくる。「日本人は仕事が終わるとすぐ風呂に入って寝て、起きるとすぐ働きだすと 聞いたが本当か」と聞かれたのにはいささか驚いた。ロ−マ字を教えてやる。レストランの先に洞窟の入り口がある。昼食後いよいよ洞窟くぐりだ。鍾乳洞のような洞穴を進むと、地底の湖がありランチに乗る。 何となく気味が悪い。この湖は地上につながっていて簡単に出られる。周遊を終わりハバナへ向かう。途中でバスは、煙草の葉の栽培から乾燥、葉巻にするまで一貫して生産している個人工場に寄る。主人というのが昔の米国の俳優ジェ−ムス・ スチュア−トに似た背の高い老人であった。帰途は皆眠っていたが私はしっかりと周囲の光景や建物などを観察した。
  7時半ホテル着。 9時半頃ブエノス・アイレスのK氏の甥のHさんが来た。43歳の太った活発な男だ。名刺を2枚くれた。それによるとJALの旅行コ−ジネ−タと、なんだか分からない会社の社長になっている。ホテルの従業員ともかなり親しそう。 11時半頃までカフェテリアでお喋り。携帯電話でブエノスのKさんに電話してくれた。妻がでたらすぐ分かったとは恐れ入る。Hさんはキュ−バには何十回も来ていると言い、キュ−バのことを色々と教えてくれた。
  曰く 『国民はカストロのことを言う時に名前は呼ばず、左の襟に2本の指を当てる(革命評議会議長の襟章を指す)とか、キュ−バではCD生産能力がないので、カナダ、コロンビアと合弁会社を作り、原版だけを運んで大量生産するとか、キュ−バの外貨獲得策は、コ−ヒ−、オリジナル音楽、葉巻、ラム酒、砂糖などの輸出の他に、有名スポ−ツ選手やコ−チを外国に派遣する報酬(彼らは月給30ドル程度だか、色々支給品があり恵まれているとか)などだが、その他に売春婦も外貨を稼ぐ功労者だとか、 政治の話は厳禁とか、日系旅行社が企画する日本人ガイドがつくツア−が高いのは、日本人ガイドの数が少なく1日120ドル位要求されるからだなどなど』 で、2時間があっと言う間にたってしまった。元気な活躍と日本での再会を約した。

2月22日(火) 〈ハバナ出発、カンクンへ向かう〉
  ゆっくり起きる。歩いて、ホテル・ハバナ・リブレ内にあるメキシコ観光の事務所へ行く。マリアさんに会い、カンクンでの迎えの車手配を確認し、メキシコ入国 カ−ドの有無とグアテマラ入国時のコレラ予防注射の要否を聞く(カ−ドの手持ちはなく、注射は不要とのこと)。近くの広場の露店市で木彫りのナイフとか人形などを買う。そう言えばハバナではまだ人形を買って なかった。1時にマリアが迎えに来た。ホセ・マルチ空港は新しいだけで、中は売店が2、3あるだけでがらがら、さびしい空港である。昨日の日本人2人娘に会った。ハバナにサルサを踊りに来たそうだ。日本では、まだまだこうした音楽好きの人間にしか、キュ−バには関心がないように思えた。我々の目的は、元気なうちにできるだけ多くのラテンアメリカの国へ行きたいと言う単純なものだが、歳と共に気力体力とも下降線をたどりつつあり、これが最後になるかもしれない。出国に1人38ドルと、とにかく最後まで外国人からドルを絞る国である。

(カンクン着)  カンクンまでは45分の飛行で、水の青さを水平線の彼方まで凝視していたら、すぐ着いてしまった。なんとも形容のしがたい
紺青の美しい海を眺めていると、25年前に毎日見ていた3角定規のようなカンクンの地形が白く浮かび上がってきて、頂点の岬にカミ−ノ・レアルのタワ−がはっきり見える。入国カ−ドと税関申告書を急いで書く。いきなり鞄の検査がある。聞くと麻薬チェックだそうだ。トランクを取ると改めて、ボタンを押させられ、緑だったのでほっとした。空港ビルの建物や内部の様子、周辺などの25年間の変わり ように驚いた。ホテル地域までかなりある。昔は埃を上げてトラックやバスが走り、殆ど何もなかった珊瑚礁の細長い道にはホテルが100軒以上も建ったとか。物凄い発展ぶりである。自分の土地を国のリゾート地にした大統領はものすごく懐が潤ったことであろう。
  当時位は夢のホテルだった、あこがれのカミ−ノ・レアルのタワ−に入ったが、フロントから少し遠いので外出には不便だ。本館とタワ−の間に、1年中強風が吹いている回廊がある。しかし、さすがに良くできており、静かで、部屋も
ベランダからの眺めも申し分なし。一休みして外へ出て、まず一番近いショッピング・センタ−のカラスコへ行く。2人の綿の半袖シャツと妻はサンダルを買う。シャツ屋の主人が親切で、日本食レストランの”山本”を聞くと、 両替した方が良いと言って、3階の両替所を教えてくれタクシ−乗り場まで案内してくれた。 ”山本”の主人は銚子の出身だそうだ。ラ−メン、いかの丸焼き、冷奴、揚げ豆腐などを注文。6日振りの日本食だが、なかなかの味である。メキシコ産のワインを1本注文。メキシコでワインができるとは知らなかったが、メキシコではバッハ・カリフォルニア(カリフォルニア半島)地方だけが葡萄の生産をしているとか。結構いける味であった。ホテルに戻り、マリアッチを聞かせるホテル内のショ−・レストラン”マリア・ ボニ−タ”の明晩の席を予約した。

≪写真説明、上から: @葉巻は1本ずつ手作りである、(ピナール・デル・リオのフランシスコ・ドナティエル工場)。Aビニャーレス渓谷の岩肌にペンキで書いた絵。Bコバルトブルーのカリブ海に突き出したカンクンの先端。Cホテル・カミーノ・レアルの海に続く庭。≫

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