ラテンアメリカ雑感 (6)
日本とペルーの過去の出来事
今年はペルーの世界遺産マチュピチュ遺跡が発見されてから102年目である。米人考古学者ハイラム・ビンガムが、インカ文明の遺跡を求めてアンデスの奥地に入り、400米上の稜線に石積みを発見し、地元の子供にお金を渡して現場を見に行かせて発見した、其の日が1911年7月24日である。(このエッセイはマチュピチュ発見100周年の2011年に発表するつもりで書いたもの)。マチュピチュが日本人の、”世界遺産の中で行きたい所”のN0.1 のためもあり、近頃はテレビ番組もマチュピチュに関する番組が多く放送されている。しかし、ペルーという国と日本とを結びつける事柄でよく知られていることと言うと、移民が多いこと、天野博物館があること、最近ではフジモリさんが大統領だったことくらいだと思う。動物好きな人だったら、らくだに似た顔のリャーマやアルパカの故郷だということも知っているだろう。(私が勝手にその位だと思っているだけかもしれないが) リャーマで思い出したので、ちょっとだけ話を横道に逸れさせてもらう。リャーマと言う名前は ”llama”と書くのだが、この”LL”はLを重ねて1字であって、リャとジャと二つの発音を持っている。従って、”雨が降る”と言う言葉は”llover”と書くのだが、リョベールとジョベールと人によって、地域によって違う(一つの国の中でも違う)。どちらも正しい。私はジョベール派でジョという人をジョイズムという。だからllamaもリャーマでもジャーマでもよさそうなものだが、どうゆうわけか、リャーマだけはジャーマでは正しい発音ではないとペルー人に教えられた。リャーマはアンデス高地に住むインカの子孫にとっては、高地における移動には絶対に欠かせぬ道具?であり、大事な動性物蛋白質の元であり、アルパカと共に防寒衣料の原料になる神様のような神聖な存在なので、呼称もただひとつだけなのだろう。日本人のテレビのレポーターがヤマとかラマとか言うときがあるが、これなどは論外で通じないだろうと思う。
この記事はマチュピチュ発見100周年に書こうと思っていた題材だったが、都合で発表がずれてしまった。少し半端な年になったが折角書いたので、アップしようと思う。ついでに、100年前の1913年の出来事を上げると、まず、護憲パワーが桂太郎内閣を倒したこと。パナマ運河が開通したことがあり、人物往来では、森繁久彌、金田一晴彦、扇谷正造などが生まれ、徳川慶喜、桂太郎、伊藤左千夫などが亡くなっている。前年の1912年には、国内最大の出来事として明治天皇が崩御され(1912年7月30日)、白瀬中尉を隊長とした日本初の南極大陸探検隊が1912年1月16日に初めて南極大陸に上陸した。国外ではタイタニック号の沈没事故(1912年
4月 14日)や、清朝の滅亡(1912年2月)などの大きな出来事があった年でもある。
万年雪を頂くアンデスの山々、日本人好みのフォルクローレ、カラフルな民族衣装、数々の著名な遺跡、現代人に不可欠な多くの食材(じゃが芋、玉葱、トマト、玉蜀黍、にんにく、唐辛子などなど)の原産地であること、アマゾン源流のジャングル地帯などなど、南米のイメージの全てを持つのがペルーである。観光で行くには魅力たっぷりの国だ。1年中ほとんど雨が降らないからリマには傘屋がない。日本に始めてきたペルー電気通信公社(Entel)の研修生に最初に傘を買う事を勧め、折り畳み傘の使い方を教えたことを思い出す。春先(10〜11月頃)にはガルーア(霧雨、海霧)が立ち込め、灰色の空気に覆われる。訪れる時期によって印象が全く変わるのがペルーである。かっての著名日本人ジャーナリスト大宅壮一は、
初めてリマに着いた時の印象を、"骸骨のすすり泣きが聞こえそうな国だ" と言った(注)。雨が降らないので、ペルーの北部からチリ北部までは砂漠だらけである。この砂漠が昔、日本人移民に苦い記憶を作らせたのだが・・・・・
前置きが長くなってしまった。では、改めて日本と関わりがあった事柄を2回に分けて紹介しようと思う。
(注)灰色の雲が低く垂れ込めた暗い雰囲気に囲まれ、スペイン人侵略者へのインカ族の恨みが聞こえるようだと言う意味を込めたもの。(1957〜8年頃に産経新聞に連載されたレポート「世界の裏街道を行く」より)。
≪マリア・ルス号事件の話≫
この事件も年紀で言うとほぼ140年前に起きた事件で、日本とペルーが国交を始めるきっかけとなった出来事である。1872年(明治5年)7月14日深夜、横浜港に停泊していた英国軍艦"アイアン・デューク"が一人の清国人を海中から救助した。その清国人はすっかり憔悴していて、自分が乗ってきたペルー船"マリア・ルス号(Maria
Luz)"船内の惨状を訴えた。船の中の待遇は家畜同然で、出発前に聞いた待遇とは全く違っていたのである。この頃の清国は、太平天国の乱と呼ばれる進歩政策をとった"洪秀全"の政権が崩壊し、農民は疲弊しきっていた。
一方、当時のペルーは太平洋側を除く3方を5つの国(チリ、ボリビア、ブラジル、コロンビア、エクアドル)に囲まれて、しばしば国境紛争を繰り返していた。このため国力の充実を図るべくラモン・カスティージャ大統領は、金銀の採掘や特産品のグアノ(鳥の糞から作る燐酸肥料)、ペルー綿と称する良質な原綿の増産に力を入れていた。しかし、ペルーは奴隷を解放した後だったため、これらに従事する労働者が不足しており、特に砂糖きび農場では極度の労働力不足に悩んでいた。そこで、国外移住を希望しマカオに来ていた清国人に目をつけ、旨い話や脅迫まがいの手段で勧誘した。
ペルー政府は、労働者を斡旋するブローカに、一人集める毎に50ドルを支払ったと言われる。こうして集まった人達は凡そ3500人にも上った。このうちの235人がマリア・ルス号に乗っていた。マリア・ルス号船内の待遇は奴隷の如くで、海に飛び込んでは脱走を図る者が続出した。マカオを出向した船は、太平洋をペルーに向けて航行中、小笠原諸島付近で台風に会い、前マストを折り航行不能になり、緊急措置としてまだ国交の無い日本に避難してきたのだ。明治5年6月4日のことである。こうして横浜港に入港している間に脱走した者が、英国軍艦に救助されることになった。清国人の名前は「木慶(もくひん)」と言った。
英国軍艦は、当時すでに国際的に禁止されていた奴隷貿易の疑いがあるとして、日本政府に通告、これを受けた政府は、軍艦"東"を横浜港に派遣して、マリア・ルス号の出港を停止させ、船長のリカルド・ヘレイロを裁判にかけた。まだ裁判制度も確立されていなかった日本は、神奈川県令(知事にあたる)大江卓が、国交もなんらの条約も無いペルー人を裁くことになったのである。裁判は、当時として驚きの目で見られ、大江卓の人権擁護思想の下に進められた。大江は船内の虐待を裁こうとしたが、横浜に駐在していた外国領事達から、横浜入港までの公海上で起きた出来事には日本の主権が及ばず裁判権はないことを指摘され苦悩する。結局横浜入港後に、虐待に反発した首謀者の頭を剃ったり監禁したりしたことを日本領内における犯罪行為として有罪の判決をだした。しかし、当時続々と横浜に開設された欧米先進国の領事館は、なんだかんだと言って日本の裁判指揮を批判した。しかしこの時代では珍しい人権擁護思想を持った大江卓の裁断と、これを支持した時の外務大臣副島種臣の毅然たる対応によって清国人は全て開放されて本国へ送還された。清国人たちの喜びはいかばかりであったろうか。
この事件が契機となって、日本とペルー両国は国交樹立の必要性を認め、翌1873年(明治6年)3月に修好条約締結のため、特使オレリオ・ガルシアが来日、同年6月19日、日秘修好条約が締結され国交が樹立された。これが後の日本人移民が実現する伏線になっている。
(注)資料の中で、このときの清国人の喜びの様子を次の文章(原文のまま)が表している。中国人は日本に対してもっともっと礼をつくしてもおかしくないのである。 『貴政府の御仁恩広く、草木昆虫の微にいたるまでも、みなそのところを得せしめ候様遊ばされ候儀と存知奉り候。若し、船長より是非とも私度もを差し押さえ、船中へ連行候儀にも候はば、私ども余儀なく貴国境内に一命を擲ち、決して身を斧砧(ふちん)の上に送り申さず所存に御座候。右事情何卒万国公法の権衡を以って私ども愚民の生命を御保護、郷里へお差返し下され候はば、再生のご恩有難く拝戴、来生は犬馬となり、あるいは、異日亡魂草を結び環を含み、御恩に報い奉るべく存じ。哀願奉り候。』 (巻末の”異日”、以下の文は当時の中国の報恩のたとへ表現である。死んでも何らかの形で恩を忘れていないことを告げたい、という意味)。
≪高橋是清の話≫
岩手県出身の大蔵大臣高橋是清は、1936年(昭和11年)2月26日に起きた、日本陸軍のクーデター (皇道派と統制派の対立、天皇の裁断により皇道派は反乱軍になった) いわゆる2.26事件によって、反乱軍に自宅で射殺された。この悲劇の蔵相高橋是清には、日本人には余り知られていないエピソードがある。
1889年(明治22年)、当時、初代の特許局長だった高橋是清は、局長を辞めて、ペルーのジャウリ(Yauli)村にあるカラワクラ銀山の開発を目指して太平洋を渡った。是清一行は開発のパートナー、ホルヘ・ヘレンの歓迎を受けて、高地へ登る前のトレーニングをした後、海抜4500メートルの山中にある銀山に入った(注)。鉱山の入り口では日本式にお神酒を奉げて成功を祈った。しかしそこは、木も草も殆ど生えていない、鳥さえも住まない荒地であった。
(注)ジャウリ村は地図では2箇所ある。いずれも首都リマから東へ約60kmと
130kmのアンデス山脈の高峰に近い場所で、どちらかは分からないが、60kmの場所には鉱山のマークがあるのでここの可能性が高い。
昼は猛暑が襲い、夜は極端に気温が下がる過酷な気候に慣れていない日本人一行は散々な苦労をした。一行の中には馬もろとも雪深いアンデスの谷底へ転落する者が出るなどのアクシデントにも見舞われた。しかし、武士道を誇る是清は、悠揚せまらず、"アンデスも転びてみれば低きもの" と人ごとのように一句を吟じたと言われる。しかし、肝心の鉱山は、すでに百数十年もの間掘り尽くされた廃坑であった。
特許局長の地位を捨て、政財界から12万5000円(現在に換算すると数十億円)もの借金をして、勇躍乗り込んだ是清の計画は惨憺たる失敗であった。日本の政治史に残るような大人物さえも、まんまとペテンに引っかかったのである。是清は家屋敷を売り払って借金を返した。ときの人達は、このことを、”カラワクラ はるばる来たら クラワカラ(蔵は空)”と揶揄した。陽気で人が良いなどと言われるラテンアメリカ人が、狡猾で恐ろしい一面を現した事件の一つである。
≪リマの天野博物館の話≫
1532年にピサロがやってきて、インカ帝国を滅ぼし、リマに首都を定めてから五百年以上の歴史を持つこの街には、多くの教会がある他、博物館もたくさんある。日本人観光客がよく行く博物館は、@アンデスへの夢とロマンに生きた天野芳太郎氏が、チャンカイ渓谷で発掘収集した土器、織物を収蔵・展示した「天野博物館」、 Aインカおよびプレインカ時代に栄えたアンデス文明の黄金製品を集めた
「国立黄金博物館」、Bインカ族の性行為を通して、おおらかな人間性を率直に現した陶器の人形を多数集めた「ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館」などである。本編では、これらの博物館のうち、日本人の天野芳太郎さんが開いた「天野博物館」を紹介する。
天野芳太郎氏は1898年(明治31年)7月2日、秋田県の男鹿半島で生まれた(1982年:昭和57年10月14日逝去)。父は地元で土建業「天野組」を営んでいた。少年時代に押川春浪の冒険小説を愛読していて、海外への雄飛に憧れていた。狭い日本から飛び出したかったのである。1万円の貯金が出来た1928年(昭和3年)8月、遂に日本を離れウルグアイに着いた。ここでスペイン語を学び、後パナマで「天野商会」を設立してデパートを始め、チリのコンセプシオンでは1千町歩の農地を取得し農場経営を営み、コスタ・リカでは、「東太平洋漁業会社」を設立して漁業に乗り出した。さらに、
エクアドルではキニーネ精製事業を、ボリビアでは森林事業を始め、ペルーでは貿易事業に商才を発揮していたが、第二次世界大戦でペルーが日本と国交を断絶したため全てを放棄させられ強制送還された。
しかし、ラテン・アメリカへの夢と情熱は絶ちがたく、持ち前の執念で、戦後の1951年(昭和26年)、密出国のような形で日本を離れた。ところが、乗船したスエーデンの貨物船クリスターサーレン号(4900トン)が太平洋上で暴風雨に遭遇し、船体は真っ二つに割れて沈没、13時間の漂流の末救助され、日本へ送還された。その後1か月足らずの後に再び日本脱出を果たし、米国、パナマを経て、運良くペルーに着いた。勝手知ったペルーに渡ってからは、魚粉、魚網などの製造事業を行いながら、青春時代からの夢であった、古代アンデス考古学研究への挑戦が始まった。
戦前からのアンデス遍歴で、知識は十分に持っていた。未発掘の遺跡を求めて、リマ北方200キロのチャンカイ渓谷に入り、いつ果てるともなき発掘作業が続けられた。それから20数年間の地道な遺跡発掘の労苦が実り、2300余点の貴重な宝物を収集し、その成果は世界に知れ渡った。
天野氏自身はその過去について多くを語らないが、戦前戦後を通して、人には言えない労苦を重ねてきた財産を、1963年に念願の天野博物館を建設する際、殆ど使い果たしてしまった。各国からペルーに来る皇族、政府要人等のVIPの多くがこの博物館を見学に訪れる。日本で開かれたいくつかのインカ展にも出品した。米国や欧州、中南米諸国などの展覧会にも毎回のように出品を求められている。
ペルーの古代文明研究者には全ての収蔵品が開放され、写真撮影や、出版にも無料で便宜が供与されている。チャンカイ文化の"つづれ織り"など7点が、ペルーの切手図案に採用されている。日本人を始め世界の50余か国から同館を訪れる観光客は、年間約6000人に上る。見学は無料であるが事前予約の申し込み制になっている。
天野氏は、 「ペルーの宝である民族的遺産を、外国人の私が有料で公開することには抵抗を感じるので無料に徹したい。研究者が誰でも展示品を手にとって見られるように、展示品は私の独創的な配列をしている。予約制ではなく一般公開にすると、見学者が増えて館員や警備員の増員などの問題が出てくる」と語っていた。しかし日本の文化交流調査団から、”博物館の維持のために募金箱を設置したらどうか”との提言を受け、入館者から募金の形で寄付を受けている。人件費を含む運営費は年間凡そ1600万円かかると言われているが、2000年以降は入館者数も増え、ようやく運営のめどがついてきたと伝えられている。
主な参考文献: Luis Diez Canseco Nunez著 Migracio'n japonesa al Peru'(1979.6), 武田八州満著マリア・ルス号事件(1956.1:有隣堂発行)、天野博物館発行資料その他多数。本文内容は無断転載転用引用をお断りいたします。
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