ボリビア Bolivia (後編)

  チチカカ湖は海抜3890メートルで、アンデス山脈のほぼ中央に位置する、世界で一番高い湖である。琵琶湖の約12倍あり中央部にボリビアとペルーの国境線が走っている。ペルーのナスカ地方の地上絵が上空から発見されたのは、そう古い話ではないが、チチカカ湖は上空から見ると、「プーマ: 豹(南北アメリカ大陸に住む猫科の動物で、インディヘナが信仰する動物の一種)が兎を咥えている姿にそっくりだ」と言われている。

 右の地図を見ると確かに良く似ている。北西のペルー領から南東方向にかけて、プーマが飛びかかり、兎の喉笛に噛み付いている姿に見える。正式名称は、プーマの部分をチチカカ湖、兎の部分をウマイマルカ湖あるいはラゴ・チーコ(小さい湖)と呼ぶ。可哀想な兎はボリビア側にあり、奇しくも、収奪される歴史を重ねてきた哀れな国の、宿命を現しているようである。

 ボリビア領のアンデス高原でチワナコ文明を築いたインディヘナはインカ帝国に征服され、その後、スペインに支配され、独立以後は、チリやパラグアイとの戦争に敗れ、国土が半分以上も減ってしまったと言う屈辱の歴史がある。地下に豊富な天然資源を持ちながら、開発資金が無いため、資源が活用されず、長い間外国資本に採掘され、搾取されてきたが、近年漸く国営化され、外貨が入るようになってきた。そのような時代、「黄金の椅子に眠る乞食」と言われていた。

  1982年のメキシコの債務破綻以降、ラテン・アメリカ諸国では経済停滞が続き貧富の差が拡大した。低所得者の不満を背景に左派政権が次々に誕生してきた。ベネズエラやボリビアは反米姿勢の強い急進左派の筆頭である。2008年4月にはパラグアイの大統領選挙で61年ぶりに中道左派が勝った。ボリビアではモラーレス大統領が、中央集権の強化で資源が生む富の再配分を積極的に行い政情は比較的安定している。2008年9月サンチアゴにおける南米諸国連合の首脳会議ではモラーレス大統領への支持が強まり、さらに2009年、米国に民主党の大統領のオバマ大統領が登場し、従来の構図も大きく変わった。2020年以降もルイス・アルセ左派政権が続いている。
  モラーレス大統領は自身のインディヘナ出身を強調するためか、2010年に国名を従来のボリビア共和国から 「ボリビア多民族国 Plurinational State of Bolivia」と言う国名に変更した。一種の力の誇示でもある。長年に渡って耐えてきた抑圧と搾取への我慢が爆発したのであろう。ボリビアと同じように国名を「ベネスエラ・ボリーバル共和国」に変えたベネスエラのチャベス大統領などの反米大統領の率いる国々の民族主義の高揚は、これからも続くのであろう。
  中南米地域は麻薬がらみの紛争などは別として、1959年のキューバのカストロの革命戦争以来、ただ1回だけ、1982年のマルビーナス(フォークランド)戦争を除いて本格的な戦争は起きていない。反政府ゲリラと政府軍との内戦も、1996年12月のグアテマラの内戦終結ですべて終った。世界全体を見た場合、比較的体制の安定している大陸であるということができると思う。2022年末では、南米の主要国は皆左派政権になっているが、大きな紛争は起きていない。いつまでも戦争がない地域であってほしいものである。

  ボリビアの首都ラ・パスの国際空港は「エル・アルト空港」といい、海抜4080メートルにあり、世界最高地の空港だ。旅行社によっては、ここへ着いた客に"世界最高地空港へ来た"と言う証明書をくれる会社もある。この他にも世界一高いと言われるものに、スキー場、サッカー場、ゴルフ場などがある。

 ラ・パスは擂鉢の底に開けたような街で、空港から市内に入るには擂鉢の縁を通らなくてはならない。下へ行くほど空気が濃くなるので低地が高級住宅地である。空港に着いて飛行機から出て普通に歩こうものなら、たちまちソロッチェ(高山病)にかかる。頭痛がしてきてからでは遅い。最低1〜2日は無駄にしなくてはならない。鼻血が出ればしめたものだ。気圧が低くて頭に上った血が溢れ出るので、これで楽になる。

  私は、ホテルで酸素ボンベを借りて酸素を吸ったのだが、これがさっぱり効果がなかったのを思い出す。味も臭いも無く、ただ"シューシュー"と口の中に空気のようなものがはいっているのが感じられるだけで、30分も吸っていても体調に変化はなかった。マラソン選手などがゴールした直後に酸素を吸っているのを見るが、あれで本当に効いているのだろうか。 

  高地に住むと赤血球が多くなり、重労働でも息が上がらなくなる。マラソン選手などがよく高地へトレーニングにでかけるのはそのためだ。しかし、だからといってボリビアの選手がどんなスポーツに強いとはいえない。高地住民は高地用に体ができているので、空気の薄い所では強いが、平地にはまた別の条件があるようだ。ボリビアはワールドカップになかなか出られない。いつも南米予選で敗退する。しかし、もし、ワールドカップがラ・パスで行われれば、間違いなボリビアが優勝するだろう。

  世界一高地のゴルフ場は球が良く飛ぶ。ある日本人駐在員が、5番アイアンで200ヤード以上もキャリーで飛んだと喜んでいた。しかし、慣れない人間がプレーしようものなら、1番のグリーンへ行くまでにダウンしてしまうだろう。こんなゴルフ場のフェアウエーやグリーンはどんな状態なのか見たいものであったが、目の前まで行きながら残念ながら見るチャンスがなかった。

  空気は平地の30%くらい薄いので御飯も早く炊き上がる、しかし、芯が残るので圧力釜じゃないと駄目だ。ラ・パスは擂鉢の中の街なので、ちょっと歩いてもすぐに坂になるが、此処を走る車はエンジンの馬力が30%は落ちるため古い車は走れない。このため、ラ・パスの街には新車が多い。他の南米の国から来た人間には、始めは、なんでこの国は自動車だけは新しいのが多いのか不審に思えるが、皆その理由を聞いて納得する。 
 
  ラ・パスの中心部から擂鉢を這い上がり、4000メートルのアルチプラーノ(高原)に出ると、擂鉢に入れなかったインディヘナが住むエル・アルト(空港と同名)と言う町がある。 通りの幅だけは広いが埃っぽく、道に面して意外に小奇麗な2階建ての家並みが続く。でも、歩いている住民は100%インディヘナである。この町を抜けて行くと、スペイン人が最初に首都を建設しようとしたラハの町がある。首都であったら多分中央広場になっていたであろう、だだっぴろい空き地と、バロック風の教会だけが目に付く寂れた町である。  数年前に、すり鉢の底から上に登るにゴンドラをぶら下げた、ロープ・ウエーが数本出来て便利になった。

 1時間ほど車を走らせると、紀元前600年頃まで栄えたチワナコ遺跡がある。途中の道の交通量は少なく、時たますれ違うトラックには、土木工事の帰りの労働者が満載されている。仕事はおそらく僅かな予算でか、それともODAのような、外国の資金で行われるのか、いずれにせよ、百年河清を待つような、インフラ整備などとはとても言えない、ささやかな工事であろう。

  チワナコ遺跡で有名なのが、太陽の門である。この民芸品の旅の最初に写真を紹介したので、覚えている方もいると思うが、チワナコの巨石文化を代表する、あの門の上部の横石にはひびが入っている。1908年の地震でできたものだ。この他にも発掘された遺跡があるが、中でも半地下の宮殿跡で、周囲の石の壁には200個位の人の首が飾られている遺跡が有名だ。どんな人の顔も、この中には似ている顔があると言われるが、白人系の顔はないようだ。その他にも、まだ未発掘の遺跡らしき土が盛り上がった部分が、あちこちに残されている。お金がないので発掘できないのだ。 21世紀になってもまだおわっていないようだ。

  チワナコ遺跡からチチカカ湖までは70キロ余りであるが、途中にある村は裕福なインディヘナが住んでいて、家も小奇麗だし、使っている農機具なども近代的なものである。その上、辺鄙な場所なのにチチカカ・ホテルと言う洒落たホテルまである。途中の湖岸には、底が腐り始めて役目を終えたトトラの船があちこちに捨て去られ、静かに消滅の時を待っている。

 チチカカ湖といっても最初に着くのは、本物のチチカカ湖とラゴ・チーコが繋がっている狭い水道部分である。つまり、プーマに咥えられた兎の喉笛に当たる場所である。この細い水道は数百メートルしかなく、渡し舟で15分くらい掛かる。この渡しを渡ると、ペルーとの国境目と鼻の先にあり、チチカカ湖に突き出たボリビア領の最端の町コパカバーナに通じる、がかがたの道が始まる。昔のインカ道の名残でもある。

  渡し舟の桟橋の横に、コンクリートでできた記念碑が建っている。ボリビアにとって、悔やんでも悔やみきれない、太平洋戦争のモニュメントである。台座の一方の面には、軍人やインディヘナが遥かな海を望んでいる姿の画があり、「ボリビアは海への出口を要求する」と書かれている。反対側の面には、ボリビア軍が銃剣でチリ兵をやっつけている絵が画いてある。そして、台座のうえには、1879年3月28日の戦いで死んだ英雄エドアルド・アバロア将軍が、右腕を西(太平洋方向)に向けて伸ばした銅像が乗っている。

  ボリビアの太平洋への出口への欲求は、ちょうど日本の北方領土返還の悲願と同じようなものであるが、こちらの方は、国の繁栄が止まって以来、すでに150年近くも訴えつづけているのだ。チリが返還に応じる可能性などは、万に一つも無いだだろうから、ボリビアにとって未来永劫に背負わなければならない宿命である。

  海への出口を奪回したいボリビア海軍は、その名前だけは今でも残し、水道を渡った向こう岸のチキーナと言う町の湖岸に、たった1艘の高速船を象徴的に残している。(現在はどうなっているか不明)。この船は水面に浮かんでいるのではなく、湖岸の「海軍司令部」の前に台座を設けそこに鎮座しているのである。この戦争の経緯を、ボリビアの「アマルゴ・マル=悲嘆の海(オスカル・ソリア脚本、アントニオ・エグイーノ監督、製作年月日不詳)」と言う映画が詳しく紹介している。日本人には余り知られていない"元祖、太平洋戦争"の概要を、かいつまんでお話しよう。   

 『1879年初め頃、ボリビアの太平洋岸地域一帯には、この地方の鉱物資源の採掘権を、ボリビア政府から得たチリ人や英国人が多数進出していた。しかし彼らは、この地方を自国領土にしようとの野望を抱き、ボリビア政府と協定した税金を意図的に滞納して、ボリビア政府を挑発した。
 当時は、通信手段としては人間の足で文書を伝える他に方法がなかった。そのため、6000メートル級の山々を越えなければならない首都ラ・パスと海岸地方の間の情報伝達は十分ではなかった。1879年の初めに、海岸地方の地質調査に行った鉱山技術者が、チリ人の横暴な進出を見て大統領に報告、政府は初めて事態の急迫に驚いた。ここから事態は一挙に戦争へと転がり落ちるのである。
 一方、チリの有力な政商は、言葉巧みに、また自分の愛人などを利用して、ボリビア政財界や軍隊上層部などに食い入り、ボリビア政府の政策などを、逐一チリ政府に通報するなどの一種のスパイ行為を働いていた。
 ボリビア政府は、チリ人達を駆逐しようとしてこの地方に軍隊を送るが、政商から常に最新情報を得て、予め軍備を整えていたチリ軍は、これを待っていたかのように、1879年2月、アントファガスタを占領してしまった。そして、遥々とアンデスを越えてきたボリビア軍を一蹴した。ペルー軍とボリビア軍は連合を組んで応戦したが、1880年5月の戦いで連合軍は大敗した。
 1881年1月、チリ軍はペルー中央部まで進出し首都リマを占領した。このとき、ペルーの侵略者ピサロのミイラが安置されている大聖堂もチリ軍に蹂躙された。惨敗を喫した両国はアルゼンチンなどに仲裁を頼み、1884年、戦いは漸く終わったが、ボリビアとしては絶対に手放してはならない海への出口、アントファガスタ地方を割譲され、永遠に国の繁栄が閉ざされてしまった。』  

 これが元祖太平洋戦争の概略であるが、資源と貿易港という国を支える2本柱を失ったボリビアは今もって、南米の貧乏国である。このためチリとは、その後何回か国交断絶と再開が繰り返されてきたが、いずれも解決を見ずにきており、1987年4月にはウルグアイのモンテビデオで、海への出口の返還交渉が行われたが、当時のチリのピノチェット大統領は、一片の土地も譲らないと強行姿勢を示し、これに対してボリビア外相が、卑怯者とののしったり、チリ製品のボイコットを決めるなど、両国関係は一触即発の危機状態に陥ったこともあり、今もって不仲である。  

  渡し舟を降りた所がチキーナ村だ。眼下に湖が眺められる高台の教会の庭は、何かと言うと村人達が集まる広場になっている。カーニバルの祭りは元より、結婚式の祝いのフィエスタなどには村中の人々が集まって一日中踊り狂う。特に女性の服装は華やかで、日頃の質素な服装をこのときだけは、かなぐり捨てて華やかさを競う。喧騒を後にするとインカ道は高台の尾根のように湖を眺めながらくねくねと続いている。

  時たま、リャーマを引いた農夫などに出会うこともある。リャーマはアルパカと共に、インディヘナが長い年月をかけて家畜化した動物で、らくだ科のなかなか気難しい動物だ。背中の荷物が20キロ以上にもなると動かなくなり、無理に立たせようとすると、唾をはいたり足で蹴ったりする、わがままな奴である。らくだ科には、この他に、大きい順に、ビクーニャ、グアナコがいるが、これらは野生のままで、寒冷の高地を走り回っているが、保護動物で毛皮獲りの捕獲は禁止されているが、密漁は絶えないようである。
  中南米に住む原住民の先祖は、2万年前の氷河期にアラスカ海峡を渡ってきたアジア人だと言う説が一般的である。アラスカから南に向けて順々に定住を始め、気性の強い部族が、豊富な食料や、温暖な気候の土地を求めてさらに南下した。従って、南に行く程、気性の強い原住民が住み付くようになったと言われている。アンデス中部に住み着いたインカ族も、スペイン軍との戦いの歴史を見ると、かなり勇猛な種族だったように思える。一番南に定住したチリのアラウカーノ族は、スペイン侵略者に最後まで、抵抗したことで有名である。 

  兎を咥えたプーマの口あたりにある町が、チチカカ湖に突き出たボリビア最西端の町、コパカバーナである。昔インカ帝国のメッカであった町で、クスコ方面へは船で出たが、アンデス高原地方との交流に利用した石畳のインカ道が今でも残されている。リオ・デ・ジャネイロの海岸と同じ名前であるが、リオの華やかさとは全く違い、今は各地のキリスト教信者が集まる信仰の町である。窟のようなトンネルの奥には褐色の肌の聖母マリア像がある。スペイン人が原住民の感情を考えて、肌の色を原住民と同じような色にしたと伝えられている。  

 コパカバーナにはペルーとの国境がある。しかし、インカ族の後裔であるペルーのケチュア族や、ボリビアのアイマラ族にとっては、現在の国境線は余り意識してないようで、大昔のインカ帝国の版図の中で、自由に高原を歩き回っている。ペルーのチチカカ湖観光の終点プーノとボリビア側の国境の町コパカバーナの間は普通の観光では通らない。21世紀の国境はもっと立派になっていると思う。 できることなら、チワナコから、コパカバーナを通り、ペルー国境の町ユングージョへ抜け、さらにプーノからクスコ辺りまでを地上ルートで観光すると、プレインカ時代からインカ時代まで高地に栄えた古代文明を、時系列的に鑑賞する旅ができると思う。

  ラ・パスの夜は、やはりペーニャのフォルクレオーレを楽しむことだ。2〜3日もいればソロッチェも治るので、高原地方のフォルクローレを聞き、踊りを見ながら、ボリビアの地酒チュフライや、シンガーニャなどを嗜むのがよい。素朴なメロディを聞いていると、いつ笑うのかと思うほど、他人には決して笑顔を見せない、インディヘナの"もの悲しさ"の心の奥底を伺い知ることができるかも知れない。                           

(ボリビア後編終わり)

ペルー編へつづく
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