【 アルゼンチン (第2部) 

 No.1 素顔のブエノス・アイレス

<南米のパリ>
タンゴの生まれた街、アルゼンチンのブエノス・アイレスは"南米のパリ"と言われる。これは、ブエノス・アイレスを表現するときの枕言葉のようなものであるが、実際は本場のパリよりも、もっとパリらしいと思う。
  近代のパリは、古い建物は外側の壁面だけ残して、内側を新しく建て直している建物が多いのに反して、ブエノス・アイレスの建物の多くは、100年以上も前のまんまで、今でも厳然と威容を保っている。第一次世界大戦当時は、食料庫として、大量の食料をヨーロッパへ運び、大儲けをしたが、その帰り船に石材を沢山積んできて、それが建築材料や道路を埋める石畳になったのである。  

 市の東北部一帯を占める、ミクロ・セントロと呼ばれる、政治経済の中心地に建つ、どっしりとした威厳のある建物は、高さこそ精々10階止まりだが、ロココ調とかロマネスク調様式の、日本では見られない立派なものである。こういった建物が建ち並ぶ街路もまた、ヨーロッパそのものでもある。最近は大分アスファルト舗装になってきたが、もともとは、石煉瓦がしっかりと組み込まれた石畳の道だった。長年の間に車などからの油が染み込んで黒くなり、雨の日などは滑って危ない。特にアルゼンチン製の靴は、底も牛革なので余計に滑り易い。

 ミクロ・セントロの通りは碁盤目になっていて、交互に一方通行である。どんな狭い道にも歩道があり、街路樹があるが電信柱は1本もない。まさに街はヨーロッパの先進国である。羨ましい限りだが、そこに住む人の気質となると、我々のような熟年日本人のモラルで見ると、おやおやと感じることが少なくない。


<義理人情のない社会>
 人間性善説は儒教を中心としたアジア人のモラルだと思うが、ヨーロッパ系を主とした多民族集団から成り立つ、ポルテーニョ(プエルト(港)と言う言葉を起源とした、ブエノス・アイレス生まれ、あるいは住んでいる人の呼び名、江戸っ子と言うのと同じようなもの)の人付き合いは、それぞれの先祖の国の文化習慣が違い、ものの考え方が分からないため、相手を信用しない前提で始まる。物の売買も、いわば騙される方が悪い式の取引なので、住み始めて最初の半年くらいは、やられたと思う度に、この国の習慣を習うための月謝だと思ったものである。本当に心を許し合う付き合いとは、家族ぐるみで家に呼んだり呼ばれたりする付き合いである。

 しかし、そのようになるには、相当の時間が必要だ。いざと言う時に頼りになるのは親族だけなので、生活は徹底した家族主義である。21世紀の日本も外国並みになりつつあるが。このような生活習慣の中では、他人に対する義理とか人情といった、かっての日本独特の風習は存在しない。大陸型の生き方と、島国型の生き方の決定的な違いである。つまり、島国では住む場所(国)の外に出られないので、一度会ったり恩を受けた人には、何時か何処かで、又会うことがあるだろうという観念があり、その人に対する礼を欠いてはならないとの思いから、"義理"が発生する。(発生していた)。

 一方、大陸型は、一過性の出会いなので、もう二度と会う事はあるまいと考え、その場限りの付き合いとして、別れた後は一切無関係と割り切る。従って、前の晩にご馳走になっても、翌朝、「昨晩はご馳走様でした」とは言わないし、奥さんが、「夫がお世話になりました」などとも言わない。後日、例えばクリスマスとか年末の挨拶も、カード以外はしない。

 しかし、このような習慣は、さっぱりしていて、むしろ、住み易い条件の一つだと思えるようになったものである。マンションの上の階から靴音やピアノの音がするからと言って、苦情を言おうものなら、文句があるなら上へ住めと言われる。上へ行く程、家賃も買う値段も高ので、それだけの権利があるのだ。上から工事の煉瓦や石の欠片、ゴミなどが落ちてきても、下の者は耐えるしかない。

 夕方の歩道をマンション寄りに歩いていると、突然水が落ちてくる。ベランダの植木に水をやっているのだが、これも下を歩いている者が悪いという理屈だ。私達も生活に慣れるに従って、下を気にしないで水を播くようになったし、夕方は自然と車道よりを歩くようになった。郷に入れば郷に従えである。 

 女中を使っていた友人から聞いた話に、こう言う話がある。
「サイドボードの上に同じ人形を幾つか並べて置いてあった。よく見ると毎日少しずつ端に寄っている。ある日、一つ減った。どうしたのかと尋ねたら、女中は、(自分が少しずつ寄せたくせに、それには触れずに)、自然に落ちたので貰ったと言った。そして、少しも悪びれずに、沢山あるので、神が私に恵んでくれたのだ」と。

 これには少々解説が必要だ。つまり、端に寄っていた(寄せたとは決して言わない)ので、人形が自分で"落ちた"、そして、それは神の恵みなのだ。だから、自分が貰っておいても何の罪にもならない、という訳である。友人は始めての経験なので、何も言葉が出なかったと言っていた。

 スペイン語独特の表現で、se me cayo'という言い方がある。これは、上の例にも通じることだが、例えば、食器を落として割った時などによく使う言い訳であるが、"落とした"のではなく"皿が私(の手)から(自分で)落ちた"と言う言い方で、自分には責任がないという意味である。

 自動車をぶつけても絶対に、"すいません"とは言わない。すいませんと言ったら最後、全て自分の責任にされてしまうからである。そんなところに止まっているのが悪いとか、ブレーキが言うことを聞かなかった、悪いのは自分じゃないと主張する。実に巧い言い方だと、習慣が分かるにつれ感心するようになってしまった。

 このように日本人には理解できないような話はいくらでもある。物を買ってお金を払った後で欠陥がわかっても、もう後の祭り、絶対に交換などしてくれない。私も妻も1年くらいは、こんなことで、随分と高い月謝を払ったものである。このような習慣は、皆、人種の坩堝と言われる多国籍人種の集まりの社会から生まれた、人間性悪説からもたらされた、必然的なものなのである。そう分かってくると腹が立たなくなるから不思議でもある。

<かっての先進国>
  アルゼンチンは南米の3大国(アルゼンチン、ブラジル、チリのいわゆるABC三国)の一つだけあって、日本よりは遥かに先進国で、裕福な経済を誇った時代があり、いまでもその面影は随所に残されている。第一期黄金時代は、第一次世界大戦の後の、ヨーロッパの交戦国を中心にした大不況の中で、戦争に加わらなかったアルゼンチンは、その豊富な資源を生かして大いに外貨を稼いだ。現在に残る鉄道、地下鉄、主要建築物は主としてこの頃のものである。 

 鉄道の開通は日本より15年早い1857年(明治維新の丁度10年前)で、英国人が農産物を始めとする物資の集散のために建設したものである。その後国民の足として、料金は政治的に安く抑えられ、さらには無賃乗車する者が40%にも上り、保守が間に合わなくなり施設は荒れ放題、必然的に生産性は上がらなくなり、赤字を垂れ流し続けてきた。新線らしいものは、1985年11月15日、日本の技術、経済援助で完成した、ヘネラル・ロカ線の一部(ブエノス・アイレスの南の玄関コンスティツゥシオン駅から国際空港のあるエセイサまでの45キロ)の電化プロジェクトくらいなものである。(その後新しい線ができたかどうかは残念ながら不明)。

 地下鉄は14年早い1913年(大正2年、日本は1927年、昭和2年の銀座線、上野〜浅草間)完成した。しかし、その後全く発展せず、線路は1メートルも伸びなかった。保守も十分でなく、枕木や線路は油でギシギシになっており、大雨が降ると水浸しになる区間もあり、車両も殆ど当時のままで、すっかり老朽化していた。折りしも、1992年、日本の丸の内線が冷房化のために、車両置換が進んでいるのを聞き、この旧型車両を買い取って、1995年から走らせることになった。

 その後1998年には、名古屋市営地下鉄の電車も導入された。これらの車両には、未だに、"乗務員室"とか"禁煙"などの日本語表示が残っている。しかし、車内には広告類が一切ないし、乗客は日本人のように目をつぶっている人は一人もいないなど、雰囲気は全く違う。  

 第2期の黄金時代は、第二次世界大戦の終了と共にやってきた。今度も実際の戦争には参加しなかったので、疲弊したヨーロッパに肉や小麦などを大量に輸出し、しこたま儲けた。カサ・ロサーダ(ピンク色の家:大統領官邸、外壁の色からこう呼ばれるが、実際はベージュ色に近い)の廊下には、金の延べ棒が山と積まれていたとも言われ、外貨保有高で世界2位になったこともある。

 これらの資金がペロン大統領の社会資本拡充政策や、基幹産業を外資や民間から買い上げて国営化するための資金に使われた。働いていた従業員は公務員になり簡単には首にならない。これによって、ペロン大統領は労働者階級から絶大な支持を得たが、公営企業は(かっての日本もそうであったが)親方日の丸意識が強くなり、生産性が上がらず赤字を垂れ流し、それを国が、お札を増刷して補填するという放慢政策を続けたため、その後の超インフレを招く大きな原因となった。   

 私の専門であった電話について少し述べてみよう。ブエノス・アイレスに始めて公衆電話が開通したのは、アレキサンダー・グラハム・ベルがボストンで、助手のトーマス・ワトソンと一緒に電話を発明してから、僅か5年後の1881年1月4日のことである。

 日本ではこれよりも4年早い1877年(明治10年)に、時の工部省が宮内省との間で試験を開始した。1889年(明治22年)には初の公衆電話が東京〜熱海間で始まり、1912年(明治45年)には京橋電話局に初の自動電話が導入された。しかしその後の普及は余り早くなかった。一方、アルゼンチンでは、1914年に、初の自動交換機がコルドバ市に導入された。1923年にはブエノス・アイレス市の自動化が始まり、1927年にはブエノス・アイレス市の殆どが自動化された。日本とアルゼンチンは、電話分野で抜きつ抜かれつの状態で発展したのである。 
 ブエノス・アイレスの電話自動化が始まったばかりの頃の、電話事情を物語るエピソードがあるが、これは、後の章で述べる事にしたい。

<親日国アルゼンチン>
   日露戦争における日本海海戦で東郷元帥率いる連合艦隊が大勝利を収めたことは、歴史上名高いことであるが、当時の連合艦隊の戦力は、日清戦争後の軍縮条約の制約を受け、ロシア艦隊に比較して、かなり劣勢だった。そうした情勢のなか、アルゼンチンは、極東の小国日本が、世界の大国ロシアを相手に戦うという意気に感じ、イタリアで建造中だった、最新鋭の装甲巡洋艦"リバダビア""モレーノ"を譲ってくれた。

 この2隻は"日進"、"春日"と命名され、日本海海戦で大活躍をした。日進に観戦武官として乗り込んだアルゼンチン海軍の、マヌエル・ドメック・ガルシア大佐(戦後明治天皇に拝謁した。後アルゼンチン海軍大臣になった)の観戦記録には、東郷平八郎元帥の、戦略、戦術をつぶさに観察し分析した内容が書かれており、日本の戦い振りを賞賛した、貴重な歴史資料として、自衛隊でも教育材料にしていると言われる。   

 これとは別の話であるが、日進の艦長室には、イタリアから回航された時からピアノが置かれていた。日露戦争終了後、このピアノを返しに巡洋艦生駒が訪アした。このピアノは今でも、ブエノス・アイレス北西郊外の、ティグレと言う水辺保養地にある海軍博物館に陳列されている(右の写真)。 (ティグレは、パラナ川がウルグアイ川と合流して、ラ・プラタ川となる辺りのデルタ地帯に位置する優雅なリゾート地である)。 ピアノの上には、昔の日本海軍の軍艦旗が飾られていて、ここを訪れる年配の日本人にとって熱い感情をかき立たせてくれる。
 明治時代を担った人間群像を描いた、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」がNHKでテレビ・ドラマになり、2009年11月から放映された。その中に当然日本海海戦の話しは出てくるが、このピアノの話しは出てこない。NHKのプロデューサーに聞いたら、原作に記述がなかったからだそうで、司馬遼太郎がアルゼンチンに関心があったら、きっと詳しく登場しただろうと思う。
このホームページの 「春日のピアノ」 に詳しく紹介しているので、是非ご覧頂きたい。  

 親日感情はこれだけではない。 第二次世界大戦においても、日本に対する宣戦布告をためらっていたが、米国に対する思惑から、終戦の年の6月になって漸く踏み切ったという経緯があるし、戦後の食料難時代には、いち早く大量の肉や小麦などを援助してくれた国でもある。なかでも出色は、種牛として雄2頭,雌4頭が入っていたことである。アルゼンチンが親日国になった理由はいくつかあるが、エビータが恵まれない幼少期に会った日本人が、とても親切にしてくれたということが大きな原因の一つになっているようでもある。
これについても、このホームページの 「エビータとカフェ・ハポネスとの話」 をご覧頂きたい。 

 多国籍民族で構成されている国ではあるが、白人系が全人口の97を占めている国なので、一人一人の胸に持つ感情には、有色人種に対する蔑視感が多少はあるのは仕方がない。勿論、公には人種差別は一切ないとは言っているが、現実に、あるスーパーのレジの行列で、一人の黒人のメードの後に並んでいた白人の女が、まるで不潔なものでも見るように、露骨に軽蔑感を表しているのを見たことがある。

 こうした中で、日本人に対しては、白人と同じような意識を持っている。 アルゼンチン人には東洋人は、中国も韓国も北朝鮮も区別が付かないが、"私は日本人だよ"と言うと、途端に態度が変わるのが良く分かる。その理由の一つは、100年を越す歴史を持つ日本人移民が、比較的敬遠されている職業(洗濯業、農業、花卉栽培など)に長年従事し、誠実さと勤勉性でアルゼンチン社会に貢献して、日本人の信用を壌かってきたことが大きいと思う。

 そして、タンゴ・フアンが本場よりも多いと言われ、大勢の歌手や楽団やダンサー達が来日して、いい稼ぎをさせてもらう日本は、自分達の世界に誇る文化を、最も理解してくれる国として尊敬しており、一際、親愛感が深いようである。ただ、近年はタンゴも変わり、日本に来るオルケスタが殆どなくなったのがさびしい限りである。

<ブエノス・アイレスのクリスマス>
 「民芸品の旅」 と名をうったこの旅物語の最後に、アルゼンチン人気質やブエノス・アイレスの素顔を、思いつくままに紹介しているが、本題とかけ離れてしまいそうなので、日本とは丁度反対に真夏に迎えるクリスマスの様子をお話して、一先ず、この章を終わりにしようと思う。  

 ブエノス・アイレスのクリスマスは永遠に真夏である。伝統あるキリスト教の国なので、クリスマスを祝うのも落ち着いている。仕事は午前中に終わり、午後からは皆チョコレートやパン・ドゥルセ(干し葡萄やナッツ類が入ったパンケーキを片手に持ち、シャンパンや花束を抱えて、家族や親類の待つ家へ集まり、一晩中食べて、飲んで、お喋りをして過ごす。

 商店などの飾りつけは12月に入ると一斉にツリーを立て、リボンやヒイラギの葉模様の飾りを付ける。ブエノス・アイレスに限らず、南米の国の店のウインドーには、女性の下着などを一つづつ大きく広げ、それぞれのポイント部分に花や葉を付け、色とりどりの品物に一層の色彩を添える。

 勿論クリスマス・ツリーには豆電球も点滅する。面白いのは、ツリーにもウンドーにも、薄っすらと綿雪を積もらせることである。そして、サンタクロースの服装も、世界共通の赤い綿入れ服に帽子である。南の国へ行ったら、裸のサンタが見られると思っていたら、見当違いであった。街頭には救世軍ならぬ教会関係者の慈善箱が置かれ、少年少女合唱隊が聖歌を歌っている。

 会社や家庭には消防の民間団体、郵便配達、新聞配達などの寄付集めが執拗に来るのもこの頃である。そして、30日あるいは31日の御用納めの日には、ビルの窓々から1年分の書類を細かく刻んで外に投げる。この紙吹雪の舞う様は、まさに南の国に降る大雪のようである。そして31日の深夜からは、またも爆竹が派手に鳴り出す。大晦日はユックリ眠れない夜になる。しかし、よくしたもので、この日の深夜には市役所の清掃車が総動員され、路上の紙屑は一晩で綺麗に片付けられ、元日の朝にはチリ一つ落ちていない清潔な街になっている。ただ、子供へのプレゼントは、1月6日のReyes Magos、つまり、"東方3賢人がキリストの誕生を祝ってベツレヘムの村人にプレゼントを配った日"、と言う聖書の故事に倣ったこの日にする。               

(素顔のブエノス・アイレス終わり)

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