アルゼンチン (第2部)

No.2  ブエノス・アイレスぶらぶら点描 

<日本の真裏とは>
 ブエノス・アイレスは、南緯34度60分、西経58度38分で、東京のほぼ正反対の位置である。透明な地球儀で、日本列島から反対側を見ると、丁度アルゼンチンの背中が見える。正反対と言う事は、東京から1周4万キロの地球上の何処を通っても、2万キロあるということで、ジャンボジェットの平均時速800キロで飛んでも25時間、丸1日以上空の上にいるわけだ。ジャンボの無着陸の最大飛行時間は14時間なので、何処のルートを飛んでも最低1回はトランシットしなくていはならない。この時間をいれると、ブエノス・アイレスまでは、どうしても30時間以上はかかる。

私は、1982年だったか83年だったか、一度だけ成田から、ロス・アンジェルスで1時間の乗り継ぎでアルゼンチン航空(アエロリネアス・アルヘンティーナ)に乗り換え、25時間でブエノス・アイレスまで飛んで、現地の旅行社をびっくりさせたことがある。ロス空港では顔見知りのJALの職員が、トランクを通関をパスして一緒に押して長い廊下を走ってくれた。沢田さんという良い方だった。このルートはロスからメキシコ、リマと2箇所に寄るだけで、チリのアントファガスタ上空で見事に45度左に曲がり、アンデスの6千米の高峰を越えてアルゼンチンに入り、フフイで45度南東に曲がってブエノス・アイレスへ真直ぐに飛ぶ、北米から南米への最短の航路である。世界中の天文学者があこがれる南米の澄んだ夜空の星を眺めていると、飛行機が曲がるのがはっきりと分かった。
 乗り継ぎの場合、通常は2時間以上間隔がない便には搭乗券を発売してくれないのを、無理を言って頼んだのである。当時アルゼンチンは外貨不足で自国で生産できない機械、薬品類をのぞき輸入禁止だったため、極端に不足していた日本食品を買い込み満杯になったトランクを引きずり、首を長くして帰りを待つ妻と娘のために、長い廊下を大汗かいて走ったことを思い出す。

 以前ブエノス・アイレスから南極を通って、豪州経由のアジア路線が出来たと聞いた時、これは短いなと思ったが、やっぱり同じだということが分かった。日本と丁度反対なので、当時のNHKの海外短波放送ラジオ・ジャパンの電波は、どの方向からも到達する。しかし、みな微弱なので、受信機の調整に苦労した。その後、パナマに中継地が出来てこの苦労もなくなったようである。もっとも21世紀の今日では、地球上の主なところでは、海底ケーブルや通信衛星経由で、いつでもNHKのテレビがみられるようになった。   

 位置が反対なので、四季は逆にやってくる。7〜8月の冬の寒さは結構厳しいし、気温も0度以下になることもある。通りにはあちこちに薄い氷が張る。1〜2月の真夏は連日30度を越す猛暑が続く。アルゼンチン人達は夏休みは徹底して休む。サラリーマンは勤続年数に応じて、最低1週間から約1か月まで休暇がとれるが、自営業者などは、好きなだけ休む。私の知っている靴屋などは、廃業したのか思ったら、なんと、店の品物を全部売り払って、そのお金がなくなるまで避暑地に行ってしまったのだ。あとどうするかは、それこそ、アスタ・マニャーナである。

 冬は寒いけど、雪は、建国(1816年)以来、2016年までの200年間でたった2度だけ、1回目は1918年(大正7年)6月22日の夜に降った。タンゴの作曲家、アグスティン・バルデスと言う人が、この雪の中で自動車が故障し、途方にくれているときに頭に浮かんだ光景を曲にしたのが、そこそこに有名なタンゴ、"Que' Noche !:ケッ・ノーチェ(なんて言う夜だ!)"と言う曲である。そして2回目が2007年の7月9日である。この日は奇しくもアルゼンチンの独立記念日であった。この雪の模様は、このホームページ 「南の国に雪が降った」 に詳しく書いてあるのでご覧頂きたい。南半球は器の水や洗濯機の渦が反対だし、台風の渦も逆だ。太陽は右手から昇り、常に北の空にある。習慣も含めて、何もかもあべこべだと思えば間違いない。

<街路名あれこれ>
  外国では、どこの都市でも"通り"は皆名前を持っている。南米大陸の国々はブラジルと、大陸北端にある小さな3つの国を除き、北部はベネズエラ生まれのシモン・ボリーバルが、南部はアルゼンチン生まれのホセ・サンマルティンの活躍によって、1810年から24年にかけて、スペインからの独立が達成された。従って、この2人の英雄の名前は、各国の道路、公園、公共建物、橋、鉄道などに残されており、また銅像によって、その勇姿が偲ばれ、永遠に人々の心の中に生き続けている。  

 特にアルゼンチンは、サン・マルティンの生国なので、彼の名前の付いた広場、通り、劇場、橋、鉄道などは枚挙にいとまがない。どこの町へ行っても碁盤目の区画の中央にある、いわゆる中央広場は、殆ど「プラサ・サン・マルティン」である。広場の真中には銅像が建ち、周囲には教会、市役所、市議会、警察署、大きなホテルなどが取り囲んでいる。

 それぞれの通りの角には、高さ2メートルほどの街路標識が立っている。ブエノス・アイレスのセントロには電柱がないので、標識だけが独立して立っているが、バリオ(住宅地)では、柱ではなく、角にある家々の壁などに標識板が張り付けてある。
 街路名は大別すると、英雄・将軍の名前、ラテン・アメリカの国名・都市名、アルゼンチンの州名・都市名などであるが、州名や都市名にはスペインにあるのと同じ名前がたくさんある。この他には、「奪回 reconquista」「解放者 libertador 」「防衛 defenza」「3人の軍曹 tres sargentos」などと言う勇ましいものや、記念する月日(5月25日、7月9日など)を付けたものなどもある。

 1982年の英国との"マルビーナス戦争"当時は、英語名の通りをみなスペイン語の名前に変えてしまった。しかし、市民に長年親しまれた名称は、それが例え敵国の呼び名であっても、簡単には変えられないらしく、結局元に戻ってしまった。    

 大勢の日本人が住んでいるブエノス・アイレスには日本名の通りもある。昔はハポン(Japo'n)通りもあったが、今では、トーキオ(Tokio、トキオではない、Toquioと書く人もいる。京都もKioto、まれにはQuiotoと書く) とオオサカの二つだけだ。場所は平屋の並んだ古い住宅地の中で、通りと言っても僅か1ブロック(約100メートル)だけの小道である。標識も角の家の壁に貼り付けただけのものだ。トウキョウ通りには、明らかに日本人の家と分かる表札がでている。地球の裏側に、しかも、他には東洋の地名の付いた所がないのに、東京や大阪があるのは誇らしくも思える。

<合理的な番地表示>
 道路名を話したついでに、合理的な番地のつけ方についてもお話しよう。 アルゼンチンは、あらゆる文化、習慣、社会制度などが、ヨーロッパから持ち込まれた国で、今なお、その思想が受け継がれている法律万能の国である。車社会を規制する交通関係の法律も、表面的にはよく整備されている。この法律に基づいて作られた道路標識は、日本よりも遥かに分かり易い。

 街路は通常100メートル四方を1ブロックとして、道路で仕切られている。それぞれの角には、黒地に白字で「街路名」、「一方通行の矢印」、「何番地から何番地までの数字」が書かれた標識が立っている。道路の片側は奇数(1,3,5〜99番地)、反対側は偶数(0,2,4,6〜100番地)で、それぞれ50番ずつ割り当てられている。一つの番地は道路の長さの50分の1(普通は約2メートル)だから、建物の間口が広ければ、2番地分も3番地分も、広い所は10番地分も占有するので、デパルタメント(マンション)の入り口と、ガレージの入り口の番地が違うのも珍しくない。  

 しかし、合理的な番地表示にも例外がある。道路幅144メートルで、世界で一番広いと言われる、ヌエベ・デ・フーリオ大通りは、2本の通りの間の建物を全部取り除いて造った道なので番地が消えてしまったし、2本の通りは、片側(ヌエベ・デ・フーリオ通りに接していた側)の建物がなくなったので、それぞれ奇数だけ、偶数だけが残った変則番地である。また、タンゴ発祥の地、ボカ地区のカミニート通りは、昔は港への引込線路道だったので、沿線の家々(裏口になる)には出入り口がなかったため番地がついていない。”カミニート通り”と有名なっても出入りは窓を跨いで出入りしている人もいる。

 デパルタメントでも一戸建て(市内では一枚の壁が隣家と共用の仕切りなっている)でも、個人の名前を書いた表札をだしているのは、医者、弁護士など特定の職業の人だけである。訪問するときは、街路名、番地、階数(一つの階がA,B,C,と言うように分かれている場合は、この区分も)だけ知っていれば、安心してブザーを押すことが出来る。

<四季の花が咲く街>
 冒頭でも書いたが、ブエノス・アイレスは南米のパリと言われているように、街の風格と言い、建物と自然の調和の美しさと言い、住む人のセンスと言い、人間の住む所としては、アスファルト・ジャングルとか、冷たい都市美とか、都会の孤独感とか言った、近代都市の非人間的な特徴を持たない、バランスの取れた素晴らしい街である。   

 ヌエベ・デ・フーリオの両側の緑地帯には、様々な街路樹が植えられていて、四季を通して何かしらの花が咲いている。ブエノス・アイレスの街には大小150以上の広場・公園があり、ここにも様々な花が植えられていて、散策する人々の目を楽しませてくれる。通りのあちこちにある花売りスタンドでは、郊外に住む日本人が、ハウスで栽培した四季の花が一年中売られている。春の気配を感じる8月末になると"サンタロッサの嵐"が決まってやってきて、じわじわと毛穴から骨の髄まで凍えさせられる、憂鬱な冬将軍を吹き飛ばしてくれる。春分の日が近づき、日本人花造りの多い郊外の各地から、花祭りの便りが聞こえてくるようになると、いよいよ春の到来である。  

 春の花はなんと言っても"ハカランダ"である。英語読みするとジャカランダだが、言葉の感じからも花の印象からも、濁りのないハカランダの方がふさわしい。長さ5〜6センチの薄紫の花が、小枝の隅々まで咲き溢れ、都の空を、霞がたなびくが如く紫色に染め上げ、春の陽射しに眩いばかりに輝く。桜と同じように風雨に弱く、一雨ごとに色褪せて、花吹雪のように散り行く様を見ると、日本人は、それぞれの胸中に故国の桜を思い浮かべ郷愁にかられる。

 ハカランダの紫が盛りを過ぎる12月になると、アルゼンチンの国花"セイボ"の季節である。ハワイなどで"虎の爪"と呼ばれるこの真っ赤な花は、ラ・プラタ川の両岸に多い。暑さも本格的になるクリスマスの頃になると、このセイボの強烈な赤を和らげるように、幹がワインやビールの樽のように膨らんだ"パーロボラッチョ"が、ほんのり頬を染めたように薄桃色と白の五弁の花をつけ始める。この木をなぜ酔っ払いの木と言うのか。幹が樽のようだからか、それとも、酔っ払には腹がでて、肥った人が多いからだろうか。

 セイボが散り、酔っ払いの花の色が褪せてくると、街路樹の"アカシア"の梢近くに、黄色い房のようになった花が見え始める。そして4月、セマーナ・サンタ(イースター:聖週間)が過ぎると、歩道にはプラタナスの落ち葉が積もり、また憂鬱な冬が始まる。

(ブエノス・アイレスぶらぶら点描 その1 終わり)

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