日露戦争が終わって5年がたった1910年(明治43年)、アルゼンチンは建国100周年記念に沸き立っていた。(独立記念日ではない、独立は1816年7月9日)日露戦争を契機として日本〜アルゼンチン友好関係は一挙に深まっていった。こうした関係から、アルゼンチン建国100周年記念行事に参列すべく、日本政府は 巡洋戦艦「生駒」を派遣した。 生駒はケープタウン周りの航路をとり、4200浬の長旅を経て5月15日にバイア・ブランカ港に近いプエルト・ベルグラーノ軍港に投錨した。この生駒には、「春日」の士官室に置かれていたピアノ も積まれていた。
 
(注) ピアノの返還は日本政府の好意によるもので、返還後の扱いについては、1ページ目に述べたとおりで、現在も海軍博物館におい丁重に扱われ健在である。

 また生駒には、当時の世界的地理学者・志賀重昂氏(当時早稲田大学教授、日本地理学会代表)が便乗しており、アルゼンチンに関する調査を行って「世界山水図説」を纏めた。その中に当時のアルゼンチンの親日友好ぶりを記した一節がある。同書の第一章「アルゼンチンにおける日本人」の一節を見てみよう。
  右の写真はアルゼンチンのバイカ・ブランカ港に入港 した巡洋戦艦「生駒」


 
 ≪軍艦生駒陸戦隊はアルゼンチン国都、ブエノス・アイレスに入り、五月二十五日建国百年祭に当たり、隊伍静粛、国都の大街衝を進行するや、街を爽める士女は喝采歓呼を以って迎え、「対馬海峡海戦の勇士」の写真は、新聞紙上に掲げられ、同二十九日アルゼンチン海軍大臣の主催に係わる欧、米、日、九カ国水兵のボート・レースで日本第一、アルゼンチン第二、独逸第三と報ぜらるるや「ハポン万歳」の喊声はラ・プラタの潮と共に湧き、日本兵目懸けて花輪を投ぐる者、国旗を投ぐる者も多く、中には美人が外衣を脱ぎて投げたる者もありしとぞ。
 
 此の如く国運隆昌の余韻は各方面に波及し、ブエノス・アイレス大学文科大学、人類学主任アンブロセッチ教授には、日本帝国軍艦が、アルゼンチン建国百年祭に参列せし栄誉の記念として、東京帝国大学宛、アルゼンチンの人類学標本を寄贈する旨日本公使(チリー兼任)まで照会し来たった。この標本は軍艦生駒に於いて保管せられ、日本まで携行する筈なるが、ブエノス・アイレスより生駒までの運賃五十円を日本公使館 にて支出せし程の大なる函二個に盛り、独り容量のかく大のみならず、うちにはアルゼンチンにて掘り出したる五、六百年前の土人骸骨五個(完全なるもの)もある。アンブロセッチ教授には又小生に宛、チャコ土人武器一式、アルゼンチン前世界の土器一式をも寄贈せられた。(中略)此の如く多大の寄贈ありたる以上は、日本の学術社会は南米大西洋岸の標本皆無なるを患えざるべく、国運隆昌の余韻は種々の方面まで波及する こと、愈々国家の洪恩を感悟した≫

(滋賀氏レポート原文のまま、以下略)
 
 【筆者考察】 生駒が入港したプエルト・ベルグラーノ軍港はアルゼンチン第一の軍港で、米国を始めイタリア、ドイツ、オランダ、チリ、ウルグアイ、パラグアイなど10か国の軍艦が入港していた。ここからピアノを運ぶには鉄道輸送でなければならないが、そのような記録が見当たらないので、生駒ではなく他の商船でブエノス・アイレス港へ直接運ばれたのではないかと言う説もあった。しかしその後、日本アルゼンチン協会において各種資料の調査が行われた結果、上記の志賀重昴博士が書いた”世界山水図”の第7章「亞爾然丁国への土産」の項に次のような記述があるのが発見され、ピアノは間違い無く生駒で運ばれたことが判明した。

 
≪明治四十三年三月、帝国軍艦生駒は亞爾然丁建国一百年祭へ参列の為め廻航することとなった。元来亞爾然丁は南亞米利加に於いて日本人の通商及び移住に恰好する土地柄なれば、彼我の関係は将来益々密着せしめざるべからざるのみか、日本人が同国に対し無限の感興を催すは、日露開戦の際、同国が日進、春日の両軍艦を譲與したる事実である。忘れもせじ開戦の詔勅下りて後六日、横須賀に安着し、直ちに武装して旅順口に走せ向ひ、間接射撃の勢勇しく、味方の士気はこの新手の力を得て益々奮興し、敵方は又た異様なる両艦の出現して異様なる働振りせるに威圧せられ、確かに我が海軍力が加倍したるは、宛も昨日の出来事の如く心地せらる。然れば日進、春日両艦内には今に其の原名モレノ(Moreno)、リヴァダヴィア(Rivadavia)と記せる器具等あれば、今回、右記名ある洋琴を生駒に移し、六年振りに初めて南米の故国に帰り、日亜両国親善の譜を奏すなどとは、思出多き趣向哉と感服して居た≫。(洋琴とはピアノのこと)

 上記の他にも、元駐日アルゼンチン大使のホセ・R・サンチェス・ムニョス氏が1998年の、「日ア修好通商航海条約100周年」を記念して発行した、「Japo'n y Argentina,  historia de sus relaciones」という本を、JETRO(日本貿易振興会)が日本語に訳した「アルゼンチンと日本ー友好関係史」の52ページにも次のように記述されている。


≪1910年・独立100周年記念と巡洋艦「生駒」の訪ア。
 1910年、(明治43年)5月25日、アルゼンチン共和国は独立100周年を盛大に祝った。全世界から貴顕、代表がブエノス・アイレスに集まった。その直前に信任状奉呈を終えていた日本の日置公使は、100周年記念特別代表の資格をも帯びていた。さらに日本は、海軍がアルゼンチンに非常な親近感を抱いていたので他の友好国の艦艇とともに式典に参列させるために、1万3750トンの巡洋戦艦「生駒」(その級として日本で最初に建造された軍艦)を荘司義基大佐の指揮の下で派遣した。生駒は同月20日軍港(現在のベルグラーノ港)に入港し、記念観艦式に参加した。生駒の乗員たちは25日の観兵式にマージョ広場(五月広場)において国家の最上層部と外国からの来賓の前で威風堂々と行進し、群集の歓呼を浴びた。記念式典の一環としてラ・プラタ河口にあるコスタネーラ河岸の前で各艦のチームによる競艇が行われ、日本代表チームが優勝し、2位はアルゼンチン、3位はドイツのチームが占めた。生駒は100周年記念の贈り物として、砲弾に貫かれた日進(旧名モレーノ)の装甲版と、春日(旧名リバダビア)のコンサートピアノを携えて来ていた。≫

あとがき
 
ブラジルやペルーへの移民は契約移民で、移民会社を介して移住したので移民史が正確に残されており一人一人の姓名もはっきりしている。これに反してアルゼンチンの場合は、移民会社の手を経て正式に入国したものは一人もいない。1910年ごろまでのアルゼンチンへの移民は、みな英国船によって渡ったもの、商船から脱走したもの、ブラジル、ペルーへ移民で渡ったものの定着できず密航してきたものなどである。。それでも1900年から1909年の10年間にアルゼンチンに入国したものは約300名に登った。日露戦争が終わた1905年には初のアルゼンチン公使館が東京に開設され、ブエノス・アイレスではその後の日本〜アルゼンチン貿易の草分けとなる二つの貿易商会が誕生した。

 
 時代はさらに遡って、1853年(嘉永6年)にペリーが浦賀にやってきたとき、ペリーの一行にモンテネグロと言うアルゼンチン人がいた。どうゆう役職が分からないが、接待した幕府の役人の中に野本作次郎という 祐筆がおり、モンテネグロと野本作次郎は親交を深めていったようだ。80年後の1933年(昭和8年)になってペリーの孫のジェイムス・D・W・ペリー氏が来日するのを機に、ペリー来日当時の関係者の子孫を探している という記事が報知新聞に掲載された。これを知った野本作次郎の孫の作兵衛氏は自ら名乗り出てペリーの孫のジェイムス・ペリー氏と会った。この会見記事を読んだ当時のアルゼンチン公使アルツゥーロ・モンテネグロ氏が作兵衛氏に手紙を書き、80年前の祖父同士の友好が明らかになった。これが契機となって、野本作次郎、作兵衛氏の生地茨城県境町とアルゼンチン公使館との交流が始まった。しかし太平洋戦争によりこの友好関係もしばし断絶、1965年(昭和40年)にようやく再開された。その後は歴代のアルゼンチン大使と、境町や小学校などとの交流が続いている。こうしてみると、日本とアルゼンチンとの交流は、民間レベルにおいて黒船到来と同時に始まったとも言えると思う。
   (1995.7.19日経新聞)。


 1台のピアノにこだわったこのエッセイはこれで一旦中断する。この後、こぼれ話をお読み頂きたい。このピアノにまつわる話にはわからないことがいろいろある。例えば、なぜ春日にだけピアノがあったのか、しかも、備え付けの一般家具と同じ扱いで置かれていたとか、そうだとしたら、ひょとしたら、日進にも積んであったんじゃないかとの憶測もできる。しかし、日進は第一戦隊6隻の殿艦で、東郷長官が死中に活を得た”T字戦法”で敵前反転したときは先頭艦になるなど目標になりやすかったため、損害は三笠についで大きなものであった。そのため壊れたか燃えてしまったので全く話題にならなかったのかもしれない。 また、誰が弾いたのかとか、すぐそばで榴弾砲弾が炸裂したのにほとんど無傷(写真を見ても分かる)だったのはなぜかとか、などがそうである。そんなこととは別に、もしかしたら、完成して引き渡された後に 自分が乗艦する予定だった、発注主のアルゼンチン海軍の高級士官が、家具リストに巧みにもぐりこませたのかも知れない。まさか建造途中で日本に身売りされるとは思わなかったのだろう。それにしても、幸運なピアノである。

 
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